学園時代にパートナーを組んでいたものの、交際関係には至らないままデビューした後のトキ春という設定です。お付き合い前です。

鈍感レディー

レコーディングルームで新曲の打ち合わせが終わる頃、トキヤへ渡すはずの楽譜を手に持ったまま、春歌が申し訳なさそうに口を開いた。
内容を聞いたトキヤは目を丸くする。
「ぎっくり腰ですか?」
「はい。お母さんが急にやってしまって……しばらくは実家へ手伝いにいこうかと」
つまり実家に帰るということだろうか。
ここ最近は打ち合わせのため頻繁に顔を合わせていたので、急に顔が見られなくなると思うと少し物足りない……という思いをトキヤは胸の底に隠した。
平然と相槌を打ちながら春歌から楽譜を受け取り、鞄にしまう。
「新曲の打ち合わせですが、メールで音源を添付しますのでそれを聴いて頂けますか?」
「そうですか……」
春歌は相変わらず申し訳なさそうに眉を寄せ、トキヤを見つめている。トキヤはと言えば、小さくため息をつき目を伏せたままだ。
それを否定と受け取ったのか、春歌がおずおずと手を上げた。
「あの、締め切りまであまり余裕もありませんし、ダメでしたらそう言ってください。お母さんにも仕事優先しろって言われているので」
「いえ、問題は無いのですが」
打ち合わせについては確かにメールでも問題なく進行出来る。しかし、ぎっくり腰が良くなるまでとなると一週間、またはそれ以上かかるだろう。
その間、春歌の声も聞けないのかと考えるだけで滅入りそうになる。
自分がもし、春歌の恋人だったなら、実家でもどこにでも手伝いにいけたのに。と、トキヤは考える。
私も君の実家に行って手伝いますよ。合間に曲の打ち合わせもしましょう。
「……」
本心ではそう言ってしまいたいが、恋人でもない存在の自分が彼女の実家に押しかけるのも迷惑ではないかと、眉をひそめながら悩む。
春歌に対して何もしてやれないことが歯がゆい。けれどどうすることもできない。

唯一出来る事といえば彼女を大人しく見送ることだけであり、トキヤ自身も「気をつけて行って来なさい」と送り出すつもりだった。
しかし、トキヤの口から出たのは予想とまったく違う言葉であった。
「君は、私と離れるのが寂しくはないのですか」
「え」
今度は春歌が目を丸くする番だった。幻聴でも聞いたかのように動きを止めている。
「……っ、すみません。聞かなかったことにしてください」
トキヤは顔をそむけながら、思いがけず頬を熱くした。
彼女の前だとつい本音が出てしまう。今まで誰の前でだって気を張り詰め、本心を出したことは殆ど無かったというのに。
うっかり本音を出してしまったことを後悔をしていると、春歌は少し考え込んでから話しだした。
「離れると言いましても、短期間ですし。でも……寂しい、です」
トキヤが視線を戻すと、なぜそんな事を聞くのかという目で春歌が見ていた。
まっすぐな目にトキヤはお手上げ状態になる。嘘はつけない。かと言って、素直に言うのも何となく小恥ずかしい。
「一ノ瀬さんは、寂しいですか?」
追い打ちをかけられるかのように聞かれ、言葉が詰まる。考えた末、出てきたのはとても可愛らしくない返答だった。
「私が寂しいなんて言う姿は、きっと世界でただ一人しか見られませんね」
「ど、どういう意味でしょう……?」
相変わらず春歌は目を丸くしている。感の鋭い人なら気づくであろう言葉の裏。
それに気づかないということは、彼女は鈍感な人なんだろう。そこがまた、愛らしいのだけど。

「まったく、鈍感な人だ」
トキヤは椅子から立ち上がり、春歌の目の前に立つ。遠回しに言っても分からないなら、やはり直接伝える他ないだろう。
今度こそ正直な気持ちを告げようと、春歌の丸くなった目を見つめる。
「会えなくなるのは寂しいですよ。なぜなら私は、君のことが……」
言いつつ、トキヤは春歌の唇を指でなぞる。急に近づいた距離に驚いたのか、春歌が身を竦めた。

「……この続きは、君が実家から戻ってきたら言います」
ほんのり赤く染まった頬を見ながら、トキヤは悪戯に微笑んだ。