2014年冬コミ発行のコピー本に入れていた話の再録です。

白衣を着たなら

それは日曜の朝のことだった。

特に出かける必要もない休日、絵麻はベッドの中で微睡んでいた。
今日は朝ごはんの支度もしなくていいし、学校へ行く必要もない。
夜遅くまでゲームをしていたのでまだ目が重く、一度起きたもののあと十数秒瞼を閉じれば再度夢の中へ入れる、というところで、隣の部屋からドタドタと慌ただしい音が聞こえた。
耳を澄ましてみれば、
「僕の部屋は椿の物置じゃないんだけど」
「だって梓のものは俺のもの、俺のものは梓のものだしー」
「だからってこんなに物を持ち込まないで」
と、双子仲良く会話しているのが聞こえた。
眠い目をこすり、ベッドから抜け出す。
枕元ではジュリがまだすやすやと寝息をたてていたので、起こさないように静かに顔を洗い、パジャマから私服へ着替えようとした時。
自室のドアがノックされ、絵麻の好きな声が彼女の名前を呼んだ。
「絵麻、ちょっといい?」
「どうぞ」
ドアを開けて入ってきたのは先ほど隣の部屋で話していた張本人だ。
絵麻はぺこりと頭を下げ、彼に朝の挨拶をした。
「梓さん。おはようございます」
「おはよう。朝からごめんね、お願いがあるんだけど……」
「なんでしょう?」
梓は申し訳なさそうに眉を下げ、ずれ落ちていた眼鏡を直した。
顔を見る限り朝から椿と一悶着あったようだ。
「実は、椿がまた僕の部屋に私物を持ち込んでね。片付けてと言ったんだけど、今日はイベントがあるからーとか言って逃げてしまったんだ」
丁寧に椿のものまねを交えての説明をしてから、梓は「はあ……」と深い溜息をつく。
「僕一人で片付ければいい話なんだけど、ちょっと量が多すぎて。キミさえ良ければ手伝ってくれないかな」
休みのところ申し訳ないんだけど、と頼まれてしまえば、断るなんて出来るはずもなく。
「大丈夫ですよ。ちょうど今日は暇してたので、わたしでよければ手伝わせてください」
「ありがとう。助かるよ」
片付け上手な梓がここまで言うということは、部屋の状況は相当ひどいらしい。
おそらく半日がかりでの片付けとなるだろうと予想し、絵麻は着替えと朝食を済ませてから隣の部屋へ向かった。

梓の部屋に入った途端、思わずわぁ、と苦笑いを浮かべてしまう。
いつもは綺麗なはずの部屋は、今や見る影もなく服やらゲームやら本やらで埋め尽くされていた。
一体どれだけのものが椿によって持ち込まれたのか、想像するだけでも梓の苦労がうかがえる。
「昨日の朝まではもう少しまともな状況だったんだけどね」
つまり昨夜、椿が部屋に入ってからこうなったのだろう。
そういえば昨晩、梓は収録が押したとかで留守にしていたなと絵麻は思い出した。
部屋の主がいない状態で侵入者に好き放題された空間に一歩踏みいろうとするも、床が見えない。
ひとまず部屋に入れるように足元に散乱する物々を抱える。
「僕としても、一日でここまで汚くされるとは思わなかったな」
「普通に考えたらそうですよね……」
そもそもこれだけあると運ぶのも大変じゃないのかな、と真面目に考えたが、椿のことだから「俺、梓の部屋の方が落ち着くんだよね」と訳の分からない事を言いながら自分の好きな物を片っ端から持ってきてくつろいでいたに違いない。
きっとベッドの上に寝転がりながらお気に入りの漫画を読んでいたのだろうと想像できるのは、ベッド上にも椿の好きなものタワーが積み上げられていたからだ。
「梓さん、昨日はどこで寝たんですか?」
「見ての通りベッドの上にも物が置いてあったから、しかたなくリビングのソファで寝たよ」
首をパキパキ鳴らす梓はきちんと休めていないのだろう。
珍しく眠そうにあくびを噛み殺し、淡々と椿の荷物をまとめていた。
(早く片付けて、梓さんにゆっくり休んでもらおう)
絵麻はそう決意して、気合を入れて腕まくりをした。

漫画をまとめ、服は畳んで重ね。
椿と梓の部屋を何度か往復して、ようやく梓の元の部屋が戻ってきた時にはもう昼前だった。
「だいぶ片付いたね。ありがとう、助かったよ」
「どういたしまして」
「お茶を淹れるからその辺に座ってて」
梓はそう言うなり備え付けのキッチンでお湯を沸かし始めた。
絵麻は言われた通りにベッドの傍に座り、手持ち無沙汰に視線を室内に投げた。
今日のサンライズ・レジデンスはとても静かだ。
珍しく家族のほとんどが出かけていたので、お昼は二人分だけ用意すればいいと考えつつ、何気なく下を向くと――
ベッドの横に、白い布が落ちているのが見えた。
(まだ椿さんの服が残っていたのかな)
そう思い、布を引っ張ってみる。
出てきたのはいつも長兄が着ているような白衣だった。
おそらくこれも椿の私物だろうが、医師でもない成人男性の部屋に白衣がある不思議な光景に絵麻は首を傾げた。
もしかしたら単に雅臣の白衣が紛れてしまったのかと思い、梓に尋ねてみる。
「梓さん、これも椿さんのものですか?」
「ん? ああ、それは僕のだよ」
「え、そうなんですか」
「……絵麻は考えていることが顔に出やすいってよく言われない?」
「へっ」
梓がくすくす笑いながら絵麻の手から白衣を受け取る。
「どうして僕が白衣なんて持ってるの? って顔してたよ」
「あ……」
まさに考えていたことを当てられ、恥ずかしさに耳が熱くなる。
椿なら興味があれば白衣でも制服でも持っていそうな印象があるが、梓は意外だった。
「これは椿に貰ったんだよ。以前保健室の先生役をもらった時、家でこれ着ながら練習すればキャラクターの性格を掴めるんじゃない、って押し付けられた」
押し付けられた当時の事を思い出したのか、梓は楽しそうに微笑んでいる。
「クローゼットにしまっておいたはずなんだけど、椿が出したんだろうな。まったく、出したら片付けてといつも言っているのに」
口では文句を言っているが、裏腹に表情は穏やかだ。
(本当に椿さんと梓さんは仲がいいんだな)
二人のエピソードを聞くと、絵麻まで微笑ましくなる。 ふふっと小さく声を漏らすと、梓と視線が絡んだ。
「それで、結局着て練習したんですか?」
「うん。その頃も台本の読み合わせは椿にやってもらってたから、着ないわけにもいかなくて。でもおかげですんなり役に入り込めたよ」
そこまで言って、梓はふと黙り込んだ。
じっと絵麻の目を見つめ、何かを思いついたように口を開く。
「……そういえば、今度また先生役をやることになったんだ。台本の読み合わせ、付きあってくれる?」
「いいですよ」
「じゃあ、お昼を食べた後にお願い」
梓は絵麻に淹れたての紅茶を手渡し、にっこりと見惚れそうになるほどの笑みを向けた。

昼食は軽いもので済ませようとの要望があったので、絵麻は二人分のサンドイッチを梓の部屋に持ち込んだ。
そして食べ終えた後、約束の通り台本の読み合わせに付き合うことになったのだが。
「……白衣、着るんですか?」
「うん。着てみると意外と雰囲気が掴みやすいんだよね」
絵麻の目の前には台本を片手に持ち、先生らしく白衣を羽織った梓がいた。
読み合わせの時に着たとは聞いていたが、まさか今日も着るとは思っていなかった。
梓が白衣を着ている姿は初めて見るが、これがなかなかに似合っていた。
先生といえば一般的には真面目なイメージがあるが、梓もまさに真面目で物静かなタイプなのでその辺りも含めて本物の先生がそこにいるようだ。
(コスプレ好きってわけじゃないけど……これは結構ときめいちゃうかも?)
何しろ好きな人がいつもと違う格好をしているので、絵麻が今の梓を見ているだけで普段よりドキドキしてしまうのはごく自然なことだ。
予想外の出来事に戸惑いつつ、台本に軽く目を通してみると、絵麻がセリフを読むのは先生に恋をする生徒役らしかった。
梓はその生徒の担任役で、あまり人を寄せ付けない性格と注釈がある。
「それじゃあ、よろしくね」
「は、はい」
返事をすると、早速梓のスイッチが入ったようだ。
「キミの気持ちには答えられないって、前にも言ったよね」
一度告白したものの、先生に気持ちを受け入れてもらえなかった主人公がもう一度想いを告げるシーン。
実際に自分が言われたわけではないのに、冷たく、どこか突き放すようなセリフに胸が痛む。
気づけば絵麻はすっかり生徒に同調してしまい、ただの読み合わせだというのに熱のこもった調子でセリフを読み上げた。
「それでもわたしは、先生が好きです。諦められません」
「――聞き分けの悪い子だね。一度キミを抱けば、諦めてくれるのかな」
「えっ」
台本通りなのだが、どこか不穏なセリフに梓を見ると、眼鏡越しの瞳に熱が帯びるのを感じ、後ずさってしまう。
「あ、梓さん……?」
「どうせ僕の外見だけが好きなんだろう? キミも、僕の中身を知ったら逃げていくんだ……でも、キミの気持ちを無下にするのもかわいそうだから。今回だけ特別」
「……っ!」
引き寄せるように手首を掴まれて、二人分の台本が床に落ちる。
梓を止めようとして開いた口は彼に塞がれ、何も言うことができない。
「この教室であった事は誰にも言わないこと――いっぱい気持ちよくさせてあげるから、これで諦めて?」
梓は台本を読まずにすらすらとセリフの続きを言っていくので、うっかり今の状況も忘れて感心してしまう。
(梓さん、セリフ覚えてるんだ。凄いなぁ……じゃなくて!)
何がどうしてこうなったのか、読み合わせをしていたはずの二人の手には既に台本も何も握られていない。
絵麻の瞳にはじわじわと焦りの色が混ざるが、梓がそれに気づくはずもなく。
「ちょっと、待ってくださ……っ」
「待たない」
少しだけ冷えた感触に身を震わせる。梓の手が服の裾から侵入してきたのだ。
脇腹を指が這い、肌が粟立つ。
下着の上から覆うように胸を触られ甘い吐息が漏れた。
首筋には梓の唇が触れ、音を立てて吸われる。
「んっ、あ、梓さんっ!」
梓の熱を持った唇が鎖骨の上をなぞり、徐々に下がっていく。
洋服のボタンを外され、肌に直接梓の吐息がかかった。
「ま、待ってくださいっ!」 
心の準備もたいして出来ないまま触れられるのは嫌だ。
そもそもこんな展開になるとは思っていなかったから、下着も色気のない楽なタイプのものだし、とても見せられたものではない。
必死になって梓の腕を掴むと、気が済んだのか彼は絵麻からぱっと手を離した。
「あ、梓さん、からかうのはやめてくださいっ」
「ごめん、キミが熱演するものだから、つい」
つい、じゃない。
だってあの目は本気だった。
ここで止めなければ本気で手を出していただろう。
絵麻は頬を膨らませ、外されたボタンを留め直した。
「もしかして主人公役の声優さんにも同じことを……」
ありえないとは思いつつじっとりと疑いの眼差しを向けると、梓は珍しく慌てた様子で否定する。
「まさか、そんなことしたら訴えられちゃうよ。今のは相手がキミだったから熱が入っちゃったんだ。ごめんね」
それに収録自体も別々に行うから、機嫌直して。と言われてしまえば膨れた頬は元に戻す他ない。
ついでに乱れた服を整え、気になっていたことを訊いてみることにした。
「……ちなみに、どんな作品なんですか?」
今回梓が声を吹きこむ役柄については充分すぎるほど分かったが、一部のゲーム以外には特に詳しくない絵麻にとっては、こんなに過激なセリフが出てくる作品があるのかと興味津々だ。
(多分乙女ゲームとかの類なんだろうけど、最近の乙女ゲームはきわどいこんな発言が入っても大丈夫なのかな)
「学園でのいけない恋愛をテーマにしたゲームだよ。……大人向けの」
「お、おとなむけ」
つまり未成年はやってはいけない分野のゲームということだろう。
絵麻の好きなFPSにも年齢制限がかかるものがあるが、あれはグロテスクな表現があるゆえの規制だ。
「恋愛ゲームでグロテスクな表現があるって、斬新ですね」
さらりと思ったとおりの感想を述べると、梓はなぜか首を振った。
「確かに一部のゲームにはそういう表現もあるけど、この作品は違うよ」
「じゃあ、どうして」
「それはね、今キミと僕がしたようなシーンがあるから」
「わたしと梓さんが……ってことは」
「うん、そういうコト」
思い出すのはつい先程の淫らな行為。
実際のゲームを想像し、感嘆符と疑問符が同時に頭から飛び出そうになる。
(そ、そんなに過激なゲームがあるんだ……。でも、ちょっと気になるかも)
何しろ絵麻は梓の声が好きなのだ。
どんな分野でも彼が演じているものには興味がある。
しかしそれを本人に伝えたら、今度はどんな悪戯をされるか分からない。
──それならば、梓には内緒で買ってみようかな、と絵麻はこっそりと決めたのだった。