何度も君に恋をする

俺に誰、と問いかけたのは紛れも無い春歌の声なのに、俺は未だに信じられない気持ちでいた。
しゃがみ込む俺の後ろから薫が顔を出す。
「春歌さん、この人はね……」
何かを言い淀んでから薫は俺の肩に手を置く。その手は、少しだけ震えていた。
「来栖先生とそっくりな方ですね。ご兄弟ですか?」
「うん。この人……翔ちゃんは、僕の双子のお兄ちゃんなんだ」
来栖先生とそっくりな、ご兄弟の方。春歌の言葉を口の中で呟き、唖然とする。
目の前にいるのは本当に春歌なのか? 実は春歌にも俺と同じで双子の姉妹がいて、今喋っているのはそいつかもしれない。それなら俺を見て首を傾げたことにも合点はいく。
しかしその希望は、即座に打ち砕かれることになる。
「ちょっと話してくるから、何かあったらナースコール押してくださいね」
「はい」
翔ちゃん、と名前を呼ばれ、立ち上がって振り向くと、薫が部屋の出口に視線をやった。外に出ろということだろうか。
俺は言葉も無いまま、ふらふらと薫に手を引かれて病室を後にした。


最初から説明するとね、と薫は前置きをしてから椅子に座るよう促した。素直に従い、廊下の椅子に腰掛ける。
薫は傍にあった自販機で缶コーヒーを買いながら話しだした。
「事故のときに頭を強く打ったみたいでね、記憶が混乱してるみたいなんだ。僕や翔ちゃんのことはもちろん、自分の名前もわからなくなってた」
床を見つめながら、黙りこむ。
薫の声が俺の耳に届くと同時に、言葉の意味は理解出来ているはずなのに、脳が拒むように言われたことがすべて右から左へ流れていく。
「翔ちゃんが来る前に、僕が彼女の名前とか一通り説明したけど、まだ翔ちゃんのことは言ってなかったんだ。いきなり情報を詰め込みすぎても混乱するかと思って……って翔ちゃん、大丈夫?」
「あ、ああ」
目の前が霞みそうになっていたところを、薫に引き止められる。
矢継ぎ早に説明された言葉をひとつひとつ噛み砕きながら口の中で復唱して、状況を整理して、そこでやっと、俺は理解する。
つまり春歌は自分の名前も何も覚えてなくて――もちろん、俺のことも忘れているということだ。
まとめてみれば数行で済むことだが、今の俺にとっては受け止めたくない事実だった。
後悔しても遅いのに、俺が黙って指輪なんて買いに行かなければ、一緒に帰っていれば守ってやれたのに。無駄な後悔がふつふつと湧いてくる。
「病院にいる間は僕がついていてあげられるけど、なるべく一緒にいてあげてね」
「ああ……ありがとな」
「ううん。それじゃあ、そろそろ僕も仕事に戻るね」
薫の背中を見送りながら、俺はしばらくの間病院の椅子に座り込んでいた。

数分後、春歌の病室へ戻った。
「あの、あなたはわたしのお友達なんですか? どうして病院にきてくれたんですか?」
あなた、という慣れない呼び方に戸惑う。もう何年も名前で呼んでいたのに……本当に、何も覚えていないのか。
ベッドの横に呆然と立ちすくむ。春歌も首を傾げてこちらを見上げて狼狽しているのに気づき、慌てて口を開く。
「翔でいいよ。記憶無くす前のお前は俺のこと『翔くん』って呼んでたし。友達っていうか同僚で……」
そこまで一気に言って、自分が春歌の恋人だと言っていいのかわからなくなってしまった。
春歌に変わりはないけど俺のことを覚えてないのに、急に恋人なんて言われても戸惑うんじゃないか。
少しの間葛藤した後、結局その先の言葉は言えなかった。
代わりに、精一杯の笑顔を浮かべ、握手を求める手を出した。
「俺達は、同僚で……とにかくさ、お前のことが心配なんだ。これからもお見舞いくるから、よろしくな」
「ありがとうございます」
俺の手を握りながら微笑む春歌は、俺の知っている春歌のはずなのに、なぜだか別人のように見えた。



次の日。 俺はラジオの収録の為、ラジオ局に訪れていた。
この番組は早乙女学園時代の同期、渋谷と共にメールで送られた相談事にボケとツッコミを交えながら答えていくというもので、今日もいつも通り溌剌と収録をこなした。
正確に言えば、溌剌に振舞っていただけで心は昨日に引き続き沈みっぱなしだった。仕事に私情を持ち込むわけにはいかないと考えた末にとった行動で、自分でも「元気な来栖翔」を演じられたと思うから、周りには気づかれていない……はずだった。

収録が終わった後、控え室に戻る道すがら。隣を歩いていた渋谷が俺の肩を思い切り叩いた。
「痛ってー! 何すんだよ」
衝撃でずれた帽子を直しながら渋谷を睨みつけると、不敵な笑みを浮かべてきた。
「元気注入?」
「え」
思わず聞き返す。渋谷は口角を上げたまま、視線だけを下に向けた。
「春歌のこと、聞いたよ」
いくらあんたでも落ち込むかと思って、と肩をすくめて俺を見る。
渋谷はいつもとあまり変わらない様子で、まるで親友の春歌が事故になど遭っていないような、そんな態度だった。
「……お前は、寂しくないのかよ。俺達のこと何も覚えてないんだぞ」
俺がそう問いかけると、渋谷は「そんなことを聞くのか」と言いたげに大きなため息をついた。
「寂しいに決まってるじゃない。でも、いま一番寂しいのはきっと春歌だよ。そんな時に周りの人が暗くなってたら、あの子は余計に不安になるでしょ」
それに、といつの間にか俺の先を歩いていた渋谷が振り返る。
「記憶を無くしても、春歌は春歌でしょ?」

***

ラジオ局を出て、病院へ向かう道を歩く。周囲の喧騒に流されず、頭の中でいまだに渋谷の言葉が巡っていた。
――記憶を無くしても、春歌は春歌。
それは俺の脳から体中へと染み渡り、沈んでいた気持ちを浮上させた。
「そうだよな……」
いま一番不安なのはきっと春歌で、俺が落ち込んでいる場合じゃない。
落ち込む前にやるべきことは、春歌に会って元気を分けてやること。これ以上不安にさせないこと。
決意を新たに頬を叩く。その時、視界に色とりどりの花が映った。
「あいつが俺のことを忘れてしまったなら、もう一度教えてやればいい」
水分を失った花が萎れても、もう一度水をやれば息を吹き返すように。
記憶をなくしたなら、もう一度関係築いて今までの事を思い出してもらえばいい。

薔薇の花束なんて小洒落たことは出来ないけど、春歌に似合いそうな花を選んで束にして、渡そう。
俺はそう考え、花屋に入っていった。


病室の扉の前で深呼吸を一つ。買ったばかりの花束を後手に持ち、扉をノックする。
中からか細い返事が聞こえた後、俺はもう一度深く息を吸って部屋に入った。
「入るぞ」
「あ、……えっと、翔くん」
春歌は相変わらずベッドの上にいたが、昨日とは違い起き上がってこちらに顔を向けていた。
一日経てば混乱した頭が整理されて、記憶が戻っているかもしれないと淡い期待を抱いていたが、そんなことはなかったようだ。
でも、俺は昨日ほど落ち込んでいなかった。
一歩ずつ近寄り、静かにベッドの横へ立ってから、持っていた花束を眼前に差し出す。
突然差し出された花束に目を丸くしている春歌に対して、効果音が出そうなほど飛び切りの笑顔を浮かべた。
「改めて、来栖翔です。昨日は言いそびれたけど……お前の、恋人だった。いや、恋人。お前と俺は付き合ってる」
春歌は俺の話していることが真実なのか冗談なのか判別が出来ず、悩んでいるような表情をしている。
それに構わず花束を押し付けるような形で渡し、俺はパイプ椅子に腰掛けた。
「冗談じゃないからな。……覚えてないだろうけど、お前が今付けてるネックレスも、俺がプレゼントしたやつ」
春歌が自分の胸元に視線を落とす。胸元にあるそれは、太陽の光を反射して綺麗に輝いている。

彼女がネックレスを見ている隙に、俺はあの日こっそり買った指輪を鞄から出した。
花束と同じように、春歌の目の前に差し出す。
「お前が事故にあった日、この指輪を一緒に見てた」
「そうなんだ……」
「おう。お前、凄い目キラキラさせてこれ見てたんだぜ。本当なら……、」
エンゲージリングになる予定だった、という言葉を飲み込む。急にそんなこと言われても、きっと春歌は困ってしまうだろう。
事故に遭う前の春歌にだってエンゲージリングのことは黙っていたし、もう少し伏せておくことにした。

「……右手の薬指につけて欲しいんだけど、記憶がないまま俺が恋人って言われても戸惑うだろうし、とりあえず持ってて欲しい」
右手の薬指なら恋人の印としても付けられるけど、今の春歌に付けてもらっても気持ちが一方通行になってしまうと思う。
それならば、しばらくの間一緒に過ごして、記憶が戻ったら付けてもらった方がいい。
「そんでさ、少しでも俺のこと思い出したりしたら、指輪をつけてほしい」
「わかりました」
春歌はそう返事をして、俺の手にあった指輪を受け取った。
どうするのかと見守っていると、ネックレスのホックを器用に外して指輪を通し、再び首元に飾っていた。
「こうやって通しておけば、無くしませんよね」
「そうだな。あとさ、敬語じゃなくていいよ。まだ俺は友達以下の存在だろうけど、年齢は一緒だしさ」
「はい! ……あ、うん!」
癖が抜けないのか、敬語で喋ってはしまったという顔をして言い直す春歌に、つい笑ってしまう。
「はは、ゆっくり慣れていけばいいからな。出会った頃もお前は敬語で話してたし」
俺が笑うと、春歌も釣られて笑う。それはまるで記憶を失う前と同じで、すぐには無理でもいつか以前のように笑い合える気がした。

その日は、面会の終了時間が訪れるまで他愛ない話をして、寮に帰った。