何度も君に恋をする

【春歌視点】

事故の時に負った怪我も回復し、もう一度検査をして異常がなければ退院出来ると担当医に言われ、わたしはそっと胸を撫で下ろす。
記憶を失って、一ヶ月が経った。
入院したばかりの頃は不安に包まれてばかりだったけれど、友ちゃんや周囲にいる人達のおかげで楽しく日々を過ごすことが出来た。
多分、このまま記憶が戻らなくても今まで通り生きていけるんだと思う。

唯一気がかりなのは、恋人の翔くんのこと。
翔くんはもう何年も前からわたしと恋人として付き合っていたらしく、入院してから時間のあるときは必ず顔を見にきてくれていた。
そして、この前翔くんがお見舞いに来てくれた時、わたしはいわゆるプロポーズをされた。
『渡した指輪は右手の薬指につけてほしいっていったけど……お前の心の準備ができたら、右手じゃなくて左手につけてほしい』
翔くんの事をどう思っているかと聞かれたら、迷わず好きと答える。
けれど、プロポーズを受けるかと聞かれたら、少し迷ってしまう。
「翔くんは、わたしで良いのかな……」
プロポーズ自体は嬉しいはずなのに、今の状態のまま受けてもいいのかな、と考えては踏みとどまる。その度、底なし沼に沈むように気分が暗くなった。
病室のカーテンを開けて朝日を浴びる。太陽の光は暗い気持ちなど吹き飛ばしてくれそうなほど明るかったけれど、変わらずわたしの気持ちは沈んだままだった。

***

たまには気分を変えようと、病院の隣にある喫茶店に足を運んでみた。
今日は翔くんが朝からロケに行っているらしく、代わりに薫くんが付いてきてくれた。
「付きあわせちゃってごめんなさい」
「気にしないで。僕も外に出たかったし」
向かい側に座った薫くんは、メニュー表を開いてこの紅茶がおすすめだよ、とわたしに見せてくれる。
わたしはおすすめされたものを頼み、薫くんはコーヒーを頼んでいた。
やがて注文した品が運ばれるのを見届けたあと、薫くんの様子を伺いながら話しかける。
「あの……相談したいことがあって」
「うん」
薫くんはコーヒーカップを傾けて一口飲み、再びテーブルに置く。わたしも同じタイミングで紅茶に砂糖を入れ、マドラーでかき混ぜながら口を開いた。
「……翔くんにプロポーズされました」
「そっか。おめでとうございます……でいいのかな?」
「……」
黙りこむわたしの表情を見て、薫くんは意外そうに肩をすくめた。
「もしかして、プロポーズ嬉しくなかった?」
「っそんなはずありません! でも……」
慌てて手を振って否定する。嬉しくなかったわけではない。
でもこの指輪とあのプロポーズは多分記憶喪失になる前のわたしに向けたもので、今のわたしに向けたものではないんじゃないかと、そんな気がした。
「……わたしが、そのプロポーズを受けてもいいんでしょうか。今のわたしは――翔くんの好きなわたしとは違うと思うんです」
わたしは翔くんが好き。事故に遭ってから何も分からなかったわたしに色々なことを教えてくれて、空いた時間を見つけては会いに来て、優しく笑いかけてくれて。
翔くんに会えば会うほど胸の中は暖かくなって、彼を愛おしく思うようになっていた。

「きっと、性格や行動の基盤は変わっていません。ただ、翔くんと過ごした時間を覚えていないから思い出の共有は出来ないし」
この前、翔くんが果物を剥いてくれたときに言っていた昔の事は、わたしも知っているはずなのに、話を聞いても何も思い出せなくて少しだけ疎外感を感じてしまった。
今のわたしは翔くんの好きなわたしとは違う。自分で言っておきながらその事実に胸が詰まりそうになる。
「プロポーズはとても嬉しかったです。でも、今の状態ではそのうち翔くんとの間に壁が出来てしまう気がするんです。……どうして、未だに何も思い出せないんでしょう」
悔しさと悲しさを吐き出すように、スカートの裾を皺ができる程強く握る。
薫くんはわたしの話に黙って耳を傾けながら、コーヒーの水面を見つめていた。

わたしが話し終えるのを待って、今度は薫くんがゆっくりと話しだす。
「記憶については、そうだなあ……。今までも何人か記憶喪失になった人は見てきたけど、すぐ思い出した人もいれば、そうじゃない人もいたから。どのタイミングでっていうのは明確にはわからない」
そう言って、薫くんはわたしをまっすぐ見据えて微笑んだ。
「今までの記憶が無くなったわけじゃないよ。きっかけとかが無いから思い出せないだけで、春歌さんの中のどこかにはちゃんと残ってるはずだから、悲観的にならなくても良いと思う。あとは春歌さんがどうしたいか、だよ」
「わたしが、どうしたいか……」
混乱する頭を整理しようと一度深呼吸をしたタイミングで、薫くんの携帯電話が震える。携帯を開いた薫くんが「あ、」と小さく声を上げた。
「ごめんね。そろそろ戻らないと」
「わかりました。……薫くん、色々とありがとう」
「どういたしまして」
そうして二人で会計を済ませ、店を出た。

***

病院までの短い帰り道を薫くんと歩きながら、わたしの頭の中は翔くんのことでいっぱいだった。
優しい眼差しで見守ってくれる翔くん、友ちゃんと話していると少しやきもちをやいたように拗ねる翔くん、今まで見てきた翔くんの顔がいっぱい浮かんで――胸にあふれたのは、翔くんとずっと一緒にいたいという願い。
「春歌さん?」
薫くんに呼びかけられているのも気づかずにわたしはネックレスにつけた指輪をいじる。
――この指輪は、一度外した方がいいのかもしれない。
翔くんは確かにわたしのことを想ってくれている。けれど、それは今のわたしじゃなくて、きっと記憶を失う前のわたしのことが大事だからで。
記憶が無いまま、翔くんのプロポーズを受けちゃいけないと思った。ちゃんと記憶を取り戻したらその時は左手の薬指にこの指輪をつけよう。
それまでは、大切にどこかにしまっておこう。翔くんとずっと一緒にいたいからこそ、けじめとして。
わたしはぼんやりとしたままネックレスの金具を外し、そして指輪を外そうとして……そこで、強い衝撃がわたしの体を襲った。
「春歌さんっ!」

歩道を走っていた自転車がわたしを避けきれずにぶつかり、その勢いで受け身をとる暇もないまま傍にあった花壇へ頭を強く打ち付ける。

遠のく意識の中で、視界の端を転がっていく指輪をぎゅっと握りしめた。