何度も君に恋をする

春歌が入院してから三週間経っただろうか。事故のときに負った怪我はほとんど治っていたが、記憶の方は相変わらず戻らなかった。
進展があったとすれば、俺と春歌の関係だ。
最初は俺にどう接していいか分からないのかぎこちない会話しか出来なかったが、今となっては柔らかな表情で冗談をいえるような仲にまでなっていた。

今日は昼に時間が出来たのを良い事に現場を抜け出し、春歌は病院側が出した昼食を、俺は病院内にあるコンビニで買った弁当を食べていた。
「翔くん、口元にお米ついてるよ」
「え? えっと、この辺?」
談笑しながら箸を進めていたら、気づかないうちに白米がくっついていたようだ。
口元を拭うが、変な位置にあるようでなかなかとれない。
「ほら、ここ」
苦戦していると春歌が微笑みながら手を差し伸べてきた。春歌の香りが鼻孔をくすぐり、心臓が大きな音を立てる。
細い指が俺の口元に寄せられ、少しだけ触れたかと思ったらすぐに離れようとし……、
「あ……」
近づいた距離にお互いの動きがとまった。
いつから、彼女に触れていないのだろう。
いつから、彼女を抱きしめていないのだろう。
腕を伸ばせば抱きしめられる距離にいま、春歌がいる。動きを止めたまま、俺を凝視している。
いっそこのまま抱きしめて、キスをしてしまおうか。
顔からほんの少しだけ離れた場所にあった腕をとり、目を瞑りながら顔を近づけ――
そして同時に聞こえた、ドアをノックする音に二人とも体を跳ねさせた。
「春歌、入ってもいい?」
聞き覚えのあるこの声は、先日俺を叱咤した春歌の親友のものだった。

「先週ぶりだね!」
渋谷が白い歯を見せながら春歌に笑いかける。春歌もにこにこと渋谷を迎え入れ、先程までの良い雰囲気は露ほども無くなってしまった。
同性だからか、記憶を失った春歌と渋谷が打ち解けるのに時間はかからなかった。
俺よりも先に春歌と心を通わせた渋谷に嫉妬したなんて、口が裂けても言えない。
渋谷は春歌の親友だし、これ以上焼きもちなんて焼いてたまるか……。
手を取りはしゃぐ二人を眺め、内心ふてくされながらも表情だけは平静を保つ。
そんな俺に渋谷が視線を向けると、お願いをするように手を合わせた。
「ねえ、ちょっと春歌借りてもいい? 二人で話したいことがあって」
「お、おう」
戸惑いながら返事をすると、渋谷は「ごめんねー」と軽く謝りながら、俺の背中を押して廊下に追いやった。
思ったよりも強引に追い出され、今度は誰も見ていないのを良い事に子供のように頬をふくらませる。
焼きもちは焼くまい、と覚悟したばかりなのに心の中がもやもやする。女同士にしか分からない話もあるんだろうけど……春歌は俺の彼女なのに。
などと10分ほど一人で嫉妬していたら、用が済んだのか渋谷が病室から出てきた。
「じゃ、来たばっかだけどあたし帰るね」
おう、と返事をしながら渋谷を訝しげな表情で見やる。
「何話してたんだよ」
「ヒミツ。アンタが春歌にいかがわしいことしてないかは聞いたけど」
「んなことしてねえよ!」
まだ、という言葉をうっかり言ってしまいそうになり口をつぐむ。まさに今さっきキスしようとしたなんて、絶対言えねえ……特に渋谷にバレたら面倒なことになりそうだ。
「無理強いはしちゃだめだからね」
「わかってるよ、そんなこと」
拒絶されるようなことをやるわけがないだろ、と言うと渋谷はそれもそうね、と相槌を打つ。そして顎に手を当て、何か考えるような仕草をしていた。
「……まあ、春歌は満更でもなさそうだけどね」
「はぁ? どういうことだよ」
無理強いはするな、でも満更でもない?
俺が聞き返しても渋谷は黙ったまま答えず、イタズラっぽい笑みを浮かべていた。
「キスするんだったら、ちゃんとタイミングを計ってねってこと」
「な……!」
まさか春歌、さっきのこと渋谷に話したのか……!?
赤面する俺を他所に、渋谷は手をひらひらと振って廊下を歩いて行った。
俺は沸騰しそうな頭を左右に振ったあと、首を傾げる。
「満更でもないけど無理強いはよくない、か……」
何なんだ一体。女心って難しい。

***

それから三日後。今日も今日とて春歌の見舞いに来ていた。
病室に入ってすぐ目に入ったのは、サイドボードに置かれた果物だった。
「よう。これ、どうしたんだ?」
山盛りの果物を横目に、今となっては使い慣れた椅子に腰掛ける。
「さっき、友ちゃんが持ってきてくれたんです。病院食もそろそろ飽きたでしょ、って」
「へえ……。あ、じゃあ皮剥いてやろうか。おやつの時間だしちょうどいいだろ」
果物ナイフを手に取り、するすると皮を剥いていく。綺麗に剥かれた皮を見て、春歌は感心したように俺の手元を見つめ、目を輝かせていた。
「すごいね。翔くんって料理得意なの?」
「得意っつーか、学生時代に那月が」
「那月?」
他の奴はもう見舞いに来てくれたから紹介できたけど、那月は仕事のタイミングが合わないようで、まだ春歌とは顔を合わせていなかった。
そりゃ知らない人の名前出されたらぽかんとするよな。
俺は反省しつつ手を動かし、皿に切ったばかりの果物を並べていく。
「那月って奴の作る飯が凄かったんだ。悪い意味で。だから俺が極力作るようになって、得意になったって感じだな」
「そうなんだ」
「お前もたまに那月の料理食っては顔真っ青にしてたんだぞ」
「……そうなんだ」
控えめに微笑む春歌の表情が、どことなく寂しそうに見える。
俺は元気づけるように、フォークに刺した果物を春歌に差し出した。
「ほら、出来たぞ」
「ありがとう」
春歌がフォークを受け取り食べ始めるのを見届けてから、俺も果物を貰うことにした。
口内に広がる甘い果汁に頬を緩ませていると、それは春歌も同じだったようでお互いにおいしいねと言い合う。

皿の上から果物がすべて無くなる頃、春歌が静かに口を開いた。
「翔くん、ありがとう」
「どういたしまして、こんなことで良かったらいつでもやってやるよ」
「うん……」
春歌の視線が俺からベッドに向く。その様子はまるで何かを言い淀んでいるかのようで、俺は先を促すように春歌を見つめる。
「今日だけじゃなくて、お仕事忙しいのに来てくれたり、一緒にご飯食べてくれたり……。翔くんは一生懸命わたしの面倒を見てくれてるのに、早く思い出せなくてごめんね」
「……謝るなよ、仕方ないことなんだし」
落ち込んでいるのか、春歌は俯いたまま顔を上げない。俺は小さい子どもをあやすように春歌の頭を撫で、にかっと歯を見せる。
「お前のこと好きだから、むしろ面倒見れて嬉しいし」
「翔くん……」
窓から夕日が差し込み、春歌の頬を朱色に染める。
その頬が夕日のせいで染まったのか、この発言のせいで染まったのかはわからないけど、無性に彼女に触れたくなった。

身を乗り出すと、ベッドのスプリングが小さな音を立てる。
お互いに無言のまま距離を縮めたら、先を予測したのか春歌はそっと目を瞑った。
俺はゆっくりと顔を近づけ、久しぶりの柔らかい感触を楽しむように、春歌の唇を啄んだ。

夕日の射し込む病室で、穏やかな空気に包まれながら口を開く。
「この間、渡した指輪は右手の薬指につけてほしいっていったけど……」
春歌の左手を両手で包み込み、軽く持ち上げる。
「お前の心の準備ができたら、右手じゃなくて左手につけてほしい」
「それって……」
お互いの頬が真っ赤に染まる。顔も、触れている手も熱くて仕方がない。まるで付き合いたてのカップルのようで照れくさい気持ちになる。
俺は咳払いをして、春歌の目を真っ直ぐに見つめた。
「ああ、プロポーズだよ。俺と結婚して欲しい。春歌」
懇願するように小さく名前を呼ぶ。

記憶をなくした春歌と一緒に過ごして実感した。
今も昔も、春歌は変わっていない。優しいところも、すぐに照れるところも、以前とまったく同じだった。ただ一つ違うのは以前の記憶が無いだけ。
だから春歌がもし、俺のことを好いていてくれるのなら。
俺達の関係を前へ進めたいと思った。

「返事は、また今度聞かせてくれ」
「……うん」
春歌がそう返事をした時、面会時間を終える放送が室内に鳴り響いた。
名残惜しそうに見つめ合ってから、俺は春歌の額に口づけ、病室を後にした。