何度も君に恋をする

薫から連絡が入ったのは、ロケを済ませた後、渋谷とのラジオ収録が終わってすぐのことだった。
「じゃ、あたし次の仕事あるしまた次回ね」
今日も春歌のところに行くんでしょ、と渋谷がウインクを飛ばす。
俺は「おう」と頷いて、そこで携帯の着信ランプが光っていることに気がついた。渋谷に手を振り、歩きながらメールを確認し――その携帯を、取り落としそうになる。
【春歌さんが頭を打って意識が戻らない】
携帯をしまう間もなく俺の足は駆けだしていた。

嘘だ、冗談だ、と一ヶ月前と同じことを願いながら病院への道を走る。
だって春歌は病院にいて、事故になんか遭うはずがないのに。どうして、なんでと繰り返し繰り返し息を切らせて走る。
(今度こそ薫が俺を驚かそうとして、冗談を言ってるのかもしれない)
そんな淡い期待を抱きつつ、セットされた髪が乱れるのも構わず一心不乱に走った。
本当はわかっていた。薫はそんな冗談を言わないということを。
それでも、俺は希望を捨てきれずに足を前へ前へと動かす。

走りながら、俺の頭は春歌のことでいっぱいになっていく。
笑った春歌、落ち込んだ春歌、俺の名前を呼ぶ春歌。記憶を無くしても、確かに気持ちが通じ始めたと、そう思っていたのに。
春歌が俺に見せた色んな表情が走馬燈のように……いや、そんなことを考えるのはやめよう。

やがて病院にたどりつくと、あのときと同じように薫が俺を待っていた。

***

二人で春歌の病室に移動し、俺は扉をゆっくりと閉じる。
「翔ちゃん……、ごめんっ」
振り向いた途端薫に頭を下げられ、俺は何事かと困惑した。どうしたんだ、と声をかけると、薫は泣きそうな顔で俺の両腕を掴んで、再び頭を下げた。
「春歌さんが、近所の喫茶店に行きたいって言ってたから僕も一緒に行ったんだ。でも、その帰り道で自転車が春歌さんにぶつかって……それで、頭を打って……」
薫が悔しそうに歯噛みをしながら拳を握りしめ、俯く。ごめん、ともう一度頭を下げられて、俺は黙って首を横に振った。
悪いのは春歌でも薫でもない。悪いのは、自転車に乗ってた奴と……大事な時に、傍にいてやれなかった俺だ。
「頭を打っていたから、もしかしたらまた記憶が混濁するかも。あと、このショックで記憶が蘇っても、入院してからの事は覚えてないかもしれない……」
「そっか……」
いつも使っていた椅子に腰掛け、呆然と肩を落とす。座りながら腕だけを伸ばし、春歌の白い手をゆるく握った。
「春歌、――春歌……はるか」
名前を呼べば起きないだろうか。微かな希望にすがりつき、無駄にあがいてみる。
握っていた春歌の手を何の気なしに見ると、柔い手のひらは硬くとじられていた。
僅かな違和感を感じ、その手を開く。いつもは胸元につけていたはずの指輪がそこにあった。
薫が俺の後ろからそれをのぞきこみ、声を上げる。
「その指輪を拾おうとしたときに、自転車がね」
「……ああ」
「……春歌さん、翔ちゃんとのこと悩んでたみたい」
今の自分が翔ちゃんのプロポーズ受けていいのかなって。
消え入りそうな声で呟かれた言葉に、頭をガツンと殴られたような衝撃が俺を襲った。
「……バカ」
いいに決まってるだろ。記憶があろうとなかろうと春歌は春歌なんだから。
……でも、本当は心細かったのだろうか。ある日突然記憶がなくなって、周りの人も誰一人わからない状態で病院に入れられて、恋人だと名乗る奴も現れて。
いくらそいつに好きだって言われても、そりゃあ色々と不安になるよな……。

春歌の気持ちを推察するうちに、だんだんと目頭が熱くなってきた。
男が泣いていいのは自分の子供が生まれたとかそういう時だけなのに、ちくしょう。
俺は気づかれないように鼻をすすって、薫に声を掛けた。
「薫、悪い。ちょっと春歌と二人きりにしてくれないか」
「……わかった。外にいるから、何かあったら呼んでね」
「ごめんな、ありがとう」
薫が静かに病室から出て行くのを確認した後、椅子から立ち上がって春歌の顔を覗き込む。
外傷は無いみたいだけど、目尻に涙の跡が見えて胸が詰まりそうになった。

俺がもっとしっかりして、春歌に好きだと、今のお前も好きなんだと気持ちを伝えていたら。
俺が、もっとしっかり春歌の面倒を見て、片時も離れなければこんなことにはならなかったはず。
眠る春歌の頭をそっと起こし、抱きしめる。
「ごめん。俺がちゃんとお前についていたら、こんなことにはならなかったな……」
もう二度と離さないようにと、春歌を強く強く抱きしめた。
「ん……」
強く抱き締めすぎたのか、春歌が身を捩る。起こしてしまったかと思ったが、瞼は相変わらず閉じられたままだった。
春歌の柔らかい髪を優しく撫で、今度は痛くならない程度の力で抱きしめる。
「好きだ、好きだよ。前の春歌も、今の春歌も」
眠っている意識に問いかけるように、言葉がすらすらと出てくる。
「春歌が何よりも誰よりも大切で、愛してるんだ」
後悔しても遅いけれど、どうすればこんなことにならなかったのかと思考を張り巡らせる。
喫茶店に薫とじゃなく俺と一緒に行っていれば、俺が代わりに自転車にぶつかっていたのに。
あの日だって片時も離れず、春歌と一緒にいれば事故に遭う前に助けられたのに。
(俺がアイドルをやめれば、毎日傍で春歌を見守ってやれる)
――なんだ、最初からそうすればよかったんじゃないか。

春歌と二人で掴んだ夢を手放すのは気が引けるどころではない。でも、愛した女を守れない男になんてなってたまるもんか。
決意が固まりかけて、俺の口から心の声が漏れた。
「……俺、アイドルやめるよ」
「えっ、だめだよ、そんな!」
「でも、そうしないとお前の傍に……って、え?」
口から滑り出た言葉に反応をもらって、うっかり返答までしてしまったけど。
抱きしめていた春歌から一度身を離し、顔をまじまじと見つめる。春歌は大きな目を大きく開いて、俺のことを見ていた。
「お前、いつから起きて……」
「……翔くんが、わたしのことを好きって言う辺りから」
「なっ……」
ほぼ最初から聞かれてた! と頭を抱えそうになる衝動を抑えて、頭上に疑問符を浮かべる。この春歌は、どこまでの事を覚えているんだろう。
「お前、今なんで病院にいるか分かるか?」
「ええと、確か翔くんと買い物に行った帰りに事故に遭って――」
どうやら春歌は、事故に遭う前は覚えていてもその後は覚えていないらしい。……という事は、俺がプロポーズしたのもなかった事になっているようだ。
いささか気と共に肩を落として、すぐに姿勢を正す。覚えてなくてもまた言えば良いと、俺はこの一ヶ月で学んだじゃないか。
気を取り直して、さていつプロポーズしよう。今度はちゃんとサプライズっぽく、ちゃんと場所とかも用意して……と、そこまで考えた時。

でもね、と春歌が視線を下に落とした。
「なんだか、とても長い夢を見ていた気がする。色んなつらいことがあって、だけど隣には翔くんがいて、励ましてくれて――あと、わたしにプロポーズしてくれたの」
例え夢でも嬉しかった。
そう言う春歌の瞳からぽろぽろと透明な水が溢れだして、次々と頬を伝っていく。……なんだ、辛かった事も嬉しかった事も、ちゃんと全部春歌の中に残ってるじゃん。
「それ、夢じゃねぇし」
笑顔で言ったつもりが、俺の目からも塩辛い水が溢れてきた。
涙を拭う春歌を、良かった、良かったと泣きながら今度こそ思い切り強く抱き締める。

散々泣いた後、二人で顔を見合わせて笑った。

***


「春歌、そろそろ行くぞー」
「はーい」

春歌が退院してから半年後の、ある日の夕方。
ようやくお互いのオフが重なったのでブライダルフェアに行く事にした。
本当は昼間から見たかったけれど、混雑を避ける為に夕方から行こうか、という話になった。

玄関を出て、鍵をかけながら春歌が口を開く。
「翔くん、わたしね」
「どうした?」
「……こんなこと言うのも何だけど。もしまた記憶喪失になっても、何度も翔くんを好きになると思う」
だからどうか、手を離さないでね。
春歌はか細いけれど優しい声で言って、俺の顔を見上げてきた。
(そんなの、俺も同じだし)
春歌の手を掴んで、その驚いた顔を見ながら俺も続いて口を開いた。
「俺だって……、もしまた春歌が俺の事忘れても、何度だってお前を好きになるし、何度だってプロポーズするよ」
「……うん、ありがとう」

掴んだ手を目線の高さまで持ち上げて、目尻を下げる。
「絶対、離してなんかやらねーから覚悟しろよ」
「……うんっ!」

確かめあうように固く指と指を絡ませて、笑い合って――そうして俺たちは、寮の出入り口までの道のりを、手を繋いで歩いた。


End.