23話でアセイラムとクランカインが婚約しないまま王位を継いで、伊奈帆が婿養子に入る本編捏造IFです
最後の方でアセイラムが身籠っている描写がありますので苦手なかたはご注意ください

言の葉紡いで

軌道騎士の皆さん、と今となっては聞き慣れた声が回線を通して伝わる。

月面基地での再開を果たした後、伊奈帆は気を失いアセイラムと再び離れてしまったのでうまく逃げられたのかと心配していたが、杞憂だったようだ。
恐らくはスレインを快く思っていない皇帝派の人間がアセイラムに手を貸したのだろう。
悲しみに満ちた彼女の声がこれまでの非礼を詫び、今後の動向を告げる。
『自らの過ちに気が付いたときには、伴侶となるはずだったトロイヤード卿と意見がすれ違ってしまいました。
これ以上の望まない戦争が続くなら、私はトロイヤード卿との婚約を破棄します。
そして軌道騎士37家門の一人、クルーテオ伯爵を副王に迎え、私は今ここに――』
回線越しに様子を伺う限りきっとこのクルーテオという人物がアセイラムをあの場から連れ出したはず。
クルーテオという名前には聞き覚えがある、以前スレインが搭乗していたタルシスの元所有者だ。
どういう経緯でタルシスがスレインの手に渡ったのか詳しくは分からないが、現状を見る限り円滑に取引されていなかったようだ――と予想できるのは、
クルーテオがもしスレイン側についていたらアセイラムは今頃月面基地を脱出できていない、という部分を見れば明確だった。
皇帝派の人間になら安心してアセイラムを預けられると伊奈帆はそこでようやく安堵の息を吐き、
『先代皇帝レイレガリア・ヴァース・レイヴァースの跡を継ぎ、ヴァース帝国の女王になります。
我々ヴァース帝国王室は、地球との和平を望みます』
毅然とした声音で彼女が宣言する瞬間を、コックピットの中で見守った。
(良かった。セラムさんはようやく元の世界に戻れるんだ)
火星の女王として今度こそ和平への道を歩んでいける。
彼女が心から願っていた平和にようやく手が届くのだ。
失ったものも多いけれどこれから得るものはたくさんある。
何より和平の先に彼女が幸せそうに佇む姿があるのなら、あとは自分の成すべきことをするだけだと覚悟も決められた。
(叶うなら、自分の意識がきちんとあるときに直接話したかった)
義眼に埋め込んだアナリティカルエンジンを酷使しすぎたせいで、まともにアセイラムとは会話できなかったことを今になって悔やむ。
できれば義眼に忖度するのではなく直接自分の気持ちを伝えたかったし、話したいことだって数えきれないほどあった。
思い返せば火星のプリンセスとはつくづくお姫様らしくない人で、最初から興味を惹かれる存在だった。
出会い頭に護身術で組み伏せてきたし、危険を顧みずに敵の前に姿を表すところも勇敢で――
だからこそ伊奈帆は彼女に惹かれたのだが、それを伝える機会はもうやってこない。
でも、それでいいと思っている。
今の最優先事項はアセイラムの願いを叶えることであり、彼女に告白することではないからだ。
『スレイン・トロイヤードを救ってあげてください』
義眼に残された彼女の最後の望みを脳内に描く。スレインは伊奈帆に大怪我を負わせた本人で、本来なら救ってやるどころかと思わずにはいられない。
だが、彼女が望むならなんだって叶えよう、と伊奈帆は決意を新たにカタフラクトの操作レバーを引いた。
(だってセラムさんは、僕が初めて恋した人だから)


激闘の末にスレインを拘束した伊奈帆は地球連合の管理下にある拘置所へ彼を収容した。
本来なら死刑だが、アセイラムが彼の救出を望んだため、表向きは死刑にして更正するようだったら名前を変えて新しい人生を歩んでもらうことになった。
(また彼の様子を見に来ないと)
スレインとの初回の面会を終え、伊奈帆はため息を吐き出しながら車に乗り込んだ。
今の状態だといつスレインが舌を噛み切るかわからないため監視をつけている。
顔を合わせるとなぜ僕を助けたと睨まれるばかりだが、スレインの存命はアセイラムが望んだことだと伝えたら、彼は一体どんな顔をするのだろうか。
可能ならば直接会わせるのが一番だとは思うけれど、限りなく不可能だろう。
伊奈帆ですら、アセイラムとの面会は叶わないのだから。
ヴァースの女王となって以来アセイラムは多忙な日々を送っているし、伊奈帆の立場は地球のただの軍人のため、
面会を希望しても彼女に辿り着く間に上層部にもみ消されてしまう――というのも、未だに地球連合の上層部はアセイラムやヴァースを警戒し、
和平交渉は罠ではないかと疑っているからだ。
(彼女がこれ以上の犠牲を望むはずがないのに)
短期間でもアセイラムと過ごした人々ならそれは分かるはず。
とはいえ、それを上層部に伝えても意味のないことなので今の伊奈帆には見守っていくしか手立てはない。
もうアセイラムと個人的に会話することはないだろうと察しつつ、彼女はヴァースで、伊奈帆は地球でそれぞれのやるべきことをこなすことが最良の道だと考えていた。
ところが、伊奈帆は思いがけない形でアセイラムと再会することになるのだった。

「ナオ君、電話鳴ってるよ」
帰宅してからいつものとおりユキと食卓を囲んだあと、夕飯の片づけをしていると、ちょうど風呂から上がってきたユキが伊奈帆のスマートフォンを渡してきた。
電話の相手は以前伊奈帆と同じくデューカリオンに乗っていたマグバレッジで、非番の日に電話をかけてくるのは初めてのことだった。
「はい。界塚ですが――え、セラムさんが?」
話を聞くところによると、どうやら彼女は今地球に降りていて地球連合日本支部に来ているらしい。
尚且つ伊奈帆との面談を求めているそうなので、可能だったら来てほしいとの用件だった。
電話を切った後、だらりとした格好でテレビを見ていたユキに声をかける。
「呼ばれたから行ってくる」
「いってらっしゃい。気をつけてね」



重厚な扉を三回ノックすると、マグバレッジの落ち着いた声が入室を促した。
「失礼します」
室内に足を踏みいれると、そこにいたのはマグバレッジとアセイラムのふたりだけだった。
アセイラムは伊奈帆の姿を確認するなりぱあっと顔を輝かせ、伊奈帆の元へ駆け寄ってきた。
「ご無沙汰しております、お元気そうで何よりです」
「セラムさんこそ。ご健勝のようで」
久しぶりに間近で見る彼女が以前よりも大人びて見えるのは、単に成長しただけではなく出会った頃よりも背負うものが大きくなったからだろうか。
「では、私は外で待機しておりますのでご入用でしたらお呼びください」
「ありがとうございます」
事前にふたりきりにしてほしいとでも伝えていたのか、マグバレッジはあっさりと退室した。
伊奈帆としては三人で話し合うものだと思っていたものだから、うっかり拍子抜けしてしまう。
「――それで、ご用件とは」
「伊奈帆さんにお話したいことがありまして」
実は、と彼女が切り出した話に、伊奈帆は目を見張った。

アセイラムがヴァースで指揮をとるようになってから、すんなりとヴァース帝国内での地球との和平の話は進んだらしい。
そこまではよかったのだが、それまで和平を反対していた火星騎士達が怖いくらいにだんまりで、何か裏があるのかと首を傾げていたら案の定。
先日「子を残すのも王の務め」と、婚約を無理やり勧められたそうだ。
彼女自身も務めとしてのそれを理解していたつもりだが、急に浮上してきた話題だったため怪しんでいたところ、やはり和平に反対する騎士達が仕向けていたことが発覚した。
彼らの狙いはきっと、アセイラムが出産に集中している間、反和平派が政治の指揮をとること。
仲間の振りをして近づいて王族の失脚を狙い地球との和平を反故にするという狙いは容易く想像できた。
(そんなことをされたら、また惑星間戦争が始まりかねないな)
通常なら真っ当な血筋で信頼のできる火星騎士と婚約をする手筈だったが、惑星間戦争後、該当するほとんどの者が戦争の後始末や自分の領地の仕事で手一杯らしく、現状どうにもならないそうだ。
なんとなく予感はしていたがヴァース帝国内の政治とはいろいろと複雑なものらしい。
長く状況を説明していたアセイラムはそこで一度言葉を区切り、深く息を吐いた。
「本題をお話します」
少し緊張した面持ちのアセイラムは、決意するように手のひらをぐっと握り締めると、まっすぐに伊奈帆を見た。
「伊奈帆さん。私と結婚してくださいませんか」
「…………え」
 彼女から耳を疑う発言が飛び出し、長い沈黙の後に訪れたのは、驚きのあまり掠れた伊奈帆の声だった。
彼女は今、なんと言ったのか。思わず自分の耳を疑ってしまった。
「国民の中には王室に地球の殿方を迎えるのを快く思わない人もいるでしょう。
ですがヴァースと地球の生まれとはいえ元を辿れば同じ人類。
地球の殿方を夫に迎え、私自身が和平の架け橋になりたいのです」
そのために協力をしてくれませんか、と言う彼女の言葉が震えていた。
信頼性に欠ける火星騎士と無理に婚約するよりは、信頼できる人と関係を結びたいといったところなのだろう。
(どうやら冗談を言っている雰囲気ではなさそうだ)
義眼を使わなくともそれくらいは分かる。そもそもアセイラムはこんな嘘をつく人ではないと知っていたし、どれだけ困っているかも見るだけで理解できた。
しかし、すぐに返答をするのは非常に難しい。
しばらく黙っていた伊奈帆だったが少ししてすみませんと前置きをした。
「少し、時間をください」
「……そうですよね。急に申し訳ありませんでした」
弱々しく微笑まれて胸が痛む。
そんな顔をさせたいわけじゃないのに、と後悔が生まれ、形容しがたい歯痒さを覚えた。
そしてぺこりと頭を下げるアセイラムに釣られて伊奈帆も会釈をし、基地を後にした。


一応、地球の――というよりは日本の憲法上、男子が結婚できるのは十八歳からとなっている。
十八になったらすぐ入籍するような相手はいなかったのもあり、これまで伊奈帆は自身の結婚についてなど考えたことがなかった。
何せまだ未成年で、つい数ヶ月前までは普通の学生だったのだから。
悶々とした気持ちを抱えて自宅に戻ると、遅い時間にも関わらずユキがまだ起きていた。
あまり遅くまで起きていると肌が荒れるよ、と言いかけ、そういえば明日は非番と言っていたのを思い出した。
「ただいま」
「おかえり……って、すごい顔してるよ。何かあった?」
あまり表情を崩した自覚はなかったが、姉にはすべてお見通しのようだった。
伊奈帆は先ほど起こったばかりのことをユキに伝えるため椅子に腰を落ち着けた。
先ほどしてきたばかりの会話を説明しつつ、我ながらまるで夢のような話だと思う。
人によっては冗談だと笑い飛ばすかもしれないこの話題を、ユキは相づちを打ちながら真剣な顔で聞いてくれた。
「そっか、お姫様がそんなことを……。それで、なお君はどうするの?」
「僕は――セラムさんが望むならそれに応えたい。でも、僕ひとりの問題じゃないからすぐには決められない」
もしアセイラムの手を取れば、ヘヴンズ・フォールで両親を亡くして以来お互い支えあいながら生きてきたたったひとりの肉親を孤独にしてしまう。
いつも弟を一番に考えているユキのことだから不満なぞ何も言わずに背を押してくるに違いない。
そのことが伊奈帆の胸中を悩ませていた。
僕がいないとユキ姉は寂しがるでしょう、などと言った日には「バカね、お姉ちゃんは大丈夫よ」と返されそうなのだ。
それが強がりだとわかる程度には伊奈帆は姉のことを見てきたし、姉がどういう性格なのかも把握していた。
互いに無言の時間が続いた末に、伊奈帆は一度椅子から立ち上がり口を開く。
「……コーヒーでも飲む?」
「うん」
伊奈帆がコーヒーを淹れている間も、ユキは一言も喋らなかった。
いつも以上に静かに感じられる空気の中、香ばしいコーヒーの匂いだけが漂う。
鼻をくすぐるその匂いが今日の出来事は夢ではないと叫んでいるようで、自然と気が引き締まった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
コーヒーの入ったマグカップをユキに手渡すと、彼女はそれを一口飲んでからテーブルの上に置いた。
またしばらく何の会話もない時間が続き、ようやく静寂を破ったのは、ユキの「あのね」という優しい声だった。
「私は、ナオ君がこの家から出て行くのが寂しい。でも……あなたが選んだ道なら反対しない」
ユキは目の前に座った伊奈帆を見て、寂しそうに微笑む。
「それに、離れていたって私が伊奈帆の家族なのは変わりないわ」
先ほどまでの表情とは打って変わってにこやかな明るい笑顔を浮かべると、次の瞬間には一気にテンションがうなぎのぼりになった。
「というかナオ君がお姫様と結婚したら玉の輿だし、私にとっても家族が増えるってことなんだから、反対するわけないじゃない!
それで、いつ籍を入れるの?」
「さすがに今すぐというわけではないみたいだけど」
「それにしてナオ君がお婿に行っちゃうなんて……しかもお姉ちゃんより先に」
弟に先を越されて悔しいのかぎりりと歯軋りをしている姉に少しふきだしてしまう。
ひとりにさせてしまうのを心苦しく思っていたけれど、今の発言を聞いてようやく安心できた。
離れて暮らすことになるのは寂しいが、そうか、ユキにとっても新しく妹ができると考えれば悪くない。
「ユキ姉も早くいい人探しなよ」
「ちぇー」
そう言ってみるとご機嫌斜めな様子で唇を尖らせ、まるで酒でも呷るみたいに冷めかけのコーヒーを一気飲みし、拗ねたように顔を背けられてしまう。
「ところでこんな遅くまで起きてて大丈夫なの。吹き出物できるよ」
「もー、いちいちそういうことは言わなくていいの!」
ユキは無遠慮な指摘をする弟の髪の毛をぐしゃぐしゃと撫でしきったあと、満足そうに笑う。
「……ちゃんと幸せになってね」
「ユキ姉こそ」
「そうね、いい人が見つかったらね。じゃあ、今日はもう寝ようか」
今夜は久しぶりにナオ君を抱きまくらにしようかな、と冗談っぽく言うユキに対し、伊奈帆は真顔で別に構わないよと返す。
そうして、姉弟ふたりの穏やかな夜が過ぎていった。

もう今後会わないだろうと思っていたアセイラムからのまさかの申し入れ。
伊奈帆としては彼女の望みに応えたいと考えている。ユキの了承も得ることができ、残る問題はただひとつ。
本当に自分が――地球で生まれ育った特別な血も流れていない人間が婿入りしていいのかという、身分差の問題だ。
伊奈帆が貴族の子息ならまだしも、本当にいいのだろうか、と悩まずにはいられなかった。
悩んで悩み続けてそれから数日後、改めてアセイラムと面談することになった。

「今日はこの前のお話の返事をしにきたのですが」
先日と同じように地球連合の日本支部、談話室にてアセイラムと向かい合う。
セラムさん、と呼びかける声が想像していたより掠れてしまったのは、きっと柄にもなく緊張しているからだろう。
「その前にひとつ聞きたいことがあります。――なぜ僕を選んだんですか」
単純に婚約による地球との和平を望むなら、地球側の王族との婚姻を結ぶこともできたはずだ。
それにも関わらずアセイラムは一般の出である伊奈帆に声をかけた。
「僕は特別な人間ではなく、ただの民間人です。それに、特別なことは何もしていません」
唯一心当たりがあるとすれば心肺停止状態だったところを救ったことくらいだ。
もしそれが影響しているのなら、きっと吊り橋効果というやつで、自分に恋愛感情を抱いているわけではない――と考えてしまう。
アセイラムは伊奈帆の言葉をひとつひとつ真剣に聴き、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、そんなことはありません。伊奈帆さんが自覚していないだけで、私はあなたに色々なことを教わりました」
 大切な思い出を語るように、優しい口調で話すアセイラムの声に耳を傾ける。
「だからこそ、あなたとこの世界の行く末を見守りたい。それに私は、伊奈帆さんを……」
そこまで言いかけると、言葉尻が弱くなり、彼女は頬を朱色に染めてもじもじといじらしく俯いた。
「愛しく思っています」
下を向いてぎゅっと目をつむっているアセイラムの頬は伊奈帆に婚約を持ちかけた時より告白をした今の方が赤くなっていた。
女王としての姿は毅然としていて、美しい。
ところが、異性として愛おしく思う人の前に立つ彼女の姿はどこからどう見ても歳相応の女の子で、とても可愛らしく見えた。
「そうですか」
彼女は地位など関係なく共に人生を歩みたい相手として伊奈帆を選んだ。
その事実が、たまらなく嬉しい。
「あくまでも私の考えですので、断ってくれて構いません。私は、伊奈帆さんの意思を尊重したい」
彼女の告白を聴いている傍ら、これが所謂逆プロポーズというものなのだろうか、とも思いつつ。
「顔を上げてください、セラムさん」
緊張に強張った表情を見つめて、ゆっくりと口を開いた。
「あなたが望むなら、僕はそれに応えようと思います」
よろしくお願いします、と頭を下げると、彼女はぱあっと顔を輝かせて破顔した。
「ありがとうございますっ」
そのまま勢いで手を握られ、彼女の手の柔らかさに伊奈帆が目を見開くと、アセイラムは咄嗟に後ずさった。
「す、すみません」
謝る彼女の顔は耳まで朱色で、照れているのだと手に取るように分かった。
対する伊奈帆も改めて愛しい彼女に触れられるとどうも胸がこそばゆくなり、若干の動揺を覚える。
「婚約をするというのに、今からこんなに照れていてはいけませんね」
気を紛らわせるためかそんなことを言われたので、伊奈帆も黙って頷いた。
緊急事態とはいえ唇が触れたことだってあるのに、今更こんなことで赤面するなんて我ながら変な話だと思う。
「本当ですね。唇が触れたことだってあるのに……」
「え?」
「以前、人工呼吸をしましたよね」
そう、あの時確かに唇が触れたのだが――アセイラムは、なぜか少し微妙そうな表情を浮かべた。
「……気持ち的には、なんだか違うような」
「そうですか? それなら、今からしますか?」
「えっ」
「冗談です」
これ以上ないくらい頬を染めた彼女に、伊奈帆はくすりと笑みをこぼしたのだった。


ヴァース帝国の女王が地球の民間人を婿に迎えるとの情報は、瞬く間に全土に広がっていった。
正気か、とあざ笑う者もいれば祝福する声も聞こえ、当分の間は伊奈帆も好奇の目に晒されることになりそうだが、本人は微塵も気にしていなかった。
むしろその堂々とした態度が評判を呼び、ヴァース帝国内でもじわじわと伊奈帆を受け入れる態勢になりつつあった。
伊奈帆とアセイラムは以前よりも顔をあわせる機会が増えたものの、婚前の恋人同士に多い些細な喧嘩もなく、正式な婚約発表の準備は着々と進んでいた。
アセイラムが時折見せる、不安そうな表情だけを除けば。

(僕はなにかしてしまったんだろうか)
日に日に表情が曇ることの多くなったアセイラムを眺め、伊奈帆は心当たりがないか自分の記憶をさかのぼった。
(……いや、特に心当たりはないな)
伊奈帆との婚約が嫌になったのかとも思うが、そうであればもっと早くに婚約を破棄する旨を伝えてくるはずだ。
彼女が嫌がることをした覚えもなく、こうなったらもう本人に直接確認するしかない。
正式に婚約するまでまだ時間はあるし、ギスギスしたまま過ごすのも心臓に悪い。
「もしかして、マリッジブルーですか?」
思いきって話を切り出してみると、彼女は視線を左右に迷わせたあと、困ったような顔をした。
「マリッジブルーといいますか……私が伊奈帆さんを選んだことを不安に思うのではなく、
伊奈帆さんは本当に私でいいのかと、思って」
世間一般では妻になる側がマリッジブルーに陥り、その理由は大抵本当にこの人でいいのか、本当に結婚していいのかと悩むのが主だ。
てっきりアセイラムも同じく婚約自体が嫌になったのかと思っていたので、意外な返答に伊奈帆は目を丸くした。
それと同時に、とことん相手のことを考える人なんだと改めて実感する。
(彼女は僕が頼まれたから了承しただけだと思ってるのか)
彼女を好きでなければ婚約を受け入れるはずがないのに何を不安に思っているのだろう――と考え、いや、自分はまだアセイラムに気持ちを伝えていないと気がついた。
そもそも月面基地で再開したときだって、義眼が勝手に「自己の一部と誤認している」と言っただけで、実際のところアセイラムにどんな気持ちを抱いているか自分の口からは伝えていなかった。
婚約の話を受けたときも特に好きとは告げなかった。アセイラムはきっと伊奈帆の気持ちを測りかねていたのだろう。
伊奈帆は申し訳無さそうに眉を下げるアセイラムの前に立ち、椅子に腰掛けた彼女と目線を合わすためにしゃがみこんだ。
「セラムさんは、僕があなたに頼まれたから婚約を了承しただけだと思っているかもしれませんが、それは違います」
好きな人の願いならなんだって叶えてやりたくなるのは男としての性。
だからこそアセイラムからの申し出を悩みながらも受け入れたのだ。
「僕はセラムさんを好きだから、この話を受けたんです」
アセイラムは幻でも見ているかのようにぽかんと口を開けて伊奈帆を見つめていて、自分がどれだけ気持ちを伝えていなかったか察してしまい苦笑いを浮かべる。
どれだけ相手を想っていても、言葉にして伝えなければ意味がない。
想像もしていなかった彼女からのプロポーズを、今度は伊奈帆が返す番だった。
「僕と結婚してください」
「はい……っ」
膝の上で握られていた小さな手に、自分の手を重ねる。
ノヴォスタリスクの攻防では離れてしまった手を、今度こそ離さないようにと強く握った。

気持ちを伝えるのが遅くなってしまったけれど大丈夫。
もう一度ここから、新しい関係を築けばいいのだから。





アセイラムの元へ正式に伊奈帆が婿入りしてから早くも数年の月日が流れていた。

当初は伊奈帆の王室入りを反対する声も大きかったが、惑星間戦争時の伊奈帆の働きは火星騎士の中でも噂になっていたようで、
伊奈帆がヴァースを訪れると恐れからか誰も手を出そうとはしなかった。
さらに女王の「夫を貶すこと、夫の故郷を蔑むことは許しません」という鶴の一声が効いたのか、それ以降王室に対する批判も少なくなっていった。
婚約前に心配していた反和平派についても、伊奈帆や副王のクランカインがうまく立ちまわったおかげで未遂に終わっている。
ヴァース帝国女王と地球の民間人が婚姻を結んだことにより、地球連合もヴァース側に敵意はないと判断。
地球からは食糧を始めとした資源の援助、ヴァースからはアルドノアの共有と提供を条件に和平を結ぶことができた。
地球とヴァース間の行き来もしやすくなり、ゆくゆくはもっと穏やかで豊かな充実した日常がやってくるだろう。

「セラムさん、そろそろ休んでください」
執務室を覗くと、愛しい妻が書類に目を通していた。
時刻はとうに零時を回っていて、そろそろ寝てもらわないと体に障ってしまう。
アセイラムのお腹には伊奈帆との愛の証が宿っており、体調を崩さないようにと伊奈帆まで細心の注意を払っている。
ところがアセイラム本人は呑気なもので、書類に向けていた視線を上げ、そこでようやく時計を確認した。
「あら、もうこんな時間だったのですね」
「早く寝ないと体調を崩しますよ」
「すみません、つい夢中になってしまって――あ、今動きましたよ。
伊奈帆さんが傍にいるってわかったのかしら」
慈しむように膨らんだ腹部に手を当てる妻の元へ伊奈帆も近づいて優しく撫でてみると、返事をするようにぽこんと小さな感触がした。
「早く逢いたいですね」
「この子が産まれたら、地球の空を見せてあげたいんです」
「良い案だと思います」
これから産まれてくる宝物に地球の青い空を見せたら、一体どんな表情を浮かべ、何を感じるのだろう?
それを想像するだけでも楽しみで、知らぬうちに伊奈帆の口角が上がる。

ふと顔を上げると、愛する人と視線が合った。
惹かれ合うように顔が近づき、柔らかい唇が合わさる。
「愛しています」
自然と溢れ出た囁きに、アセイラムは嬉しそうに笑む。
「私も、伊奈帆さんを愛しています」

幾度も聞いた言葉でも、聞くたびに胸の奥からくすぐったいほどの感情がこみ上げてくる。
想いを籠めた言の葉は紡げば紡ぐほど互いを癒やし、愛しさを募らせた。