お姫様に口づけを

あと数回寝ればまたひとつ歳を取る、という日。誕生日当日は仕事が入っている為、数日前の今日、私は春歌と共に穏やかな時間を過ごしていた。
春歌の作ったバランスの良い手料理を頂いた後、特に何をするでもなく私達はソファでくつろぎ、窓から入る暖かな日差しに時たま微睡んでいる。
恋人らしく触れ合う事も考えましたが、まだ昼過ぎですし、何よりそういう事をしようとすると春歌が恥ずかしがってしまって中々先に進まず。
無理強いをするのもどうかと思いますし……いえ、やはり一緒にいるのですから。多少の触れ合いは必要かもしれません。
私は、肩に寄りかかりうつらうつら船を漕いでいる春歌の手をゆるやかに握った。
「……ん、トキヤくん……?」
「春歌、昼寝をするならここで横になって眠ってください」
言いつつ、私は自分の膝を指さす。どうせ眠るなら春歌の寝顔を見ていたいが、肩に寄りかかったまま眠られてしまったらそれすらできなくなる。
それならば、自分の膝を枕代わりにしてもらえば彼女の寝顔を見ることができると考え……たのですが。
「いえ、昼寝しないで起きてます……」
私の考えは春歌の一言で一蹴された。しかし口では否定しながらも、まだ意識が覚醒していないのか、春歌は目をこすりながらあくびをし――再び目を閉じ、私に寄りかかりそうになっていた。
……おかしいですね、最近は仕事の締め切りも焦って徹夜するようなものはなかったはずですが。昨夜は寝付きが良くなかったのでしょうか。
「寝不足ですか?」
私がそう尋ねると、春歌は首を横に振り、もそもそと擬音がつきそうな緩慢な動きで寄りかかっていた体を起こした。
「すみません、トキヤくんと一緒にいるとつい安心してしまって……」
「春歌……」
それは私といると気が緩むという解釈でいいのでしょうか。堅苦しいほど緊張されるよりはマシのような、でも付き合いたての緊張感が恋しいような。
……いえ、ならば私が彼女をドキドキさせればいいだけですね。
今にも目を閉じそうな彼女を抱きしめる。前触れなしで抱きしめたおかげか、春歌は眠そうな表情から一転、驚いた表情を浮かべていた。
「あの……」
「抱きしめては、いけませんか?」
「いえ……」
わざと耳元で囁くと春歌はくすぐったそうに息を漏らし、耳を赤くして私の胸元に顔を埋めた。
そのまましばらく彼女を抱きしめ続け……しばらくしてから、愛おしい彼女が腕の中で小さく身じろぎをした。抱きしめる力が強かったのでしょうか?
そう思って腕の力を弱めれば、彼女は私の顔を見上げ、柔らかい微笑みを浮かべた。
「トキヤくん、お誕生日に何か欲しいものはありますか?」
「欲しいものですか。そうですね、強いていえば……」
君自身が欲しい、なんて言ったら君はどんな顔をするのでしょうか。
身体的にも精神的にも立場的にも、すべてにおいて君が欲しい。本当はそう言ってしまいたいけれど、欲望を抑え若干ぎこちない動作で彼女に笑いかけた。
「特にありません」
「……本当に何もないんですか?」
あります。ありますが、それは今願うべきではないと本能が告げているのです。結婚という鎖で君を束縛してしまうには、まだ早すぎる。
アイドルとしての私の立場がしっかりとしたものになった日には、すぐにでも求婚したいのですが。……いっそ既成事実でも作ってしまおうかと自分の中で悪魔がそそのかしましたが、無視することにします。
「私は春歌と一緒にいられたら、それだけで嬉しいんです」

疑うような春歌の視線を避けていると、春歌はそっぽを向いて少しだけいじけたように頬を膨らませた。
「トキヤくんのお誕生日の為だけに、貯金もしていたのですが……」
「ではそれを結婚資金にするのはどうでしょう」
「え?」
「いえ口が滑りました」
春歌があんまりにも可愛らしい事を言うものだから、つい口が滑ってしまいました。聞かなかったことにしてください、と春歌の唇に誤魔化すような口づけを落とす。
それでも春歌は先程の発言が気になるようだったので、話題をそらす目的も含めて逆に問いかけてみた。
「そういう君こそ、何か欲しいものは? たまには私におねだりしてみたいとか、思いませんか?」
君がねだるなら何だって手にしてみせましょう。そう言うと、春歌は首を傾げ……。
「うーん」
首を傾げたまま、唸り――
「特にないです」
出てきた言葉に、私は肩を落としそうになった。思わず目を丸くし、春歌の顔を凝視する。
「君も同じじゃないですか」
彼女は照れくさそうに眉を寄せ、困ったようにえへへ、と笑ったものですから落としかけた肩も元通りの姿勢になった。
「あ、でもひとつだけありました!」
両手をぱちん、と合わせ、満面の笑みを浮かべて……こういう時の春歌はいつも私を驚かせる発言ばかりするもので、私は少しだけ身構えた。
何を聞いても冷静に、落ち着いて対処できるよう内心深呼吸をする。さあ来なさい、と覚悟もして春歌の言葉に耳を傾ける。
「今日は一日、トキヤくんと一緒にいたいです……って、これは欲しいものとはまた違うんでしょうか」
ところが案の定、というか予想外というか。私を動揺させるような言葉を掛けられ、冷静になろう、落ち着こうという覚悟もすべて吹き飛んでしまった。
「……」
ああ、私は一体どんな顔をすればいいのでしょう。迂闊に話す事もはばかられ、沈黙してしまう。沈黙を否定と捉えたのか、春歌が悲しそうな目で私を見てきた。
「……だめ、ですか?」
「……だめなはずがないでしょう?」
私は君が望むなら今日だけでなく、今後一生君と一緒にいたいと、添い遂げたいと思っているのですよ。
その言葉を飲み込み、抱きしめた彼女の肩口に顔をうずめる。
「どうして君は、こう……」
私を驚かせることも、喜ばせることも得意なんでしょう。
不安そうにたじろぐ春歌を、もう一度包み込むようにして抱いてから、私は春歌と見つめ合い――お互いが惹かれ合うようにキスをした。
「今日は……今日だけではなく、この先も。私だけのお姫様の為に尽くす事にします」
恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに頬を赤くした春歌は、まるで本物のお姫様のように可愛らしくて。
私は彼女の手を取り、その指先に忠誠を誓うように口付けた。

特別な捧げ物なんて無くても、十分。
――君といれば、何気ない一日でも至福の時間となるのですから。