キスする瞬間

朝から部屋にこもって曲を作っていたら、来訪者を告げる鐘が鳴った。ノートに走らせていたペンを置き、ピアノ椅子から立ち上がる。
インターホンを覗くとそこには真斗くんが立っていた。今日部屋に来るという連絡は来ていなかったはず。
わたしは急いで鍵を開け、ついでにドアも勢いよく開けようとして――ふと我に返り、真斗くんにぶつからないようにそっとドアを開く。
「真斗くん!」
名前を呼んだら、微笑まれた。ああ、今日も素敵な笑顔を見せていただけてわたしはとても幸せ者です。
でも、急にどうしたんだろう。もしかして、何かあったのかな。内心首を傾げていると真斗くんが口を開いた。
「急に来てしまってすまない。入ってもいいだろうか?」
「もちろんです!」
何はともあれ、最近の真斗くんはお仕事も入って忙しそうだったので、久しぶりに会えて嬉しい。その場で抱きついてしまいたくなる気持ちをぐっと押さえ、わたしは真斗くんを部屋へ招いた。

 真斗くんをリビングに通し、お茶を差し出す。お茶菓子もだすべきかなと迷ったけど、時計の針は午後の2時を指していておやつの時間にはまだ早かった。
真斗くんは湯呑みを受け取ったきり黙っている。わたしも真斗くんの正面に座ったものの、何を話せばいいかわからず湯呑みから出る湯気を眺めていた。
部屋の中に沈黙が降り注ぐ。会って話したいことはたくさんあったはずなのに直接顔を合わせると、なかなかうまく言葉がでてこない。
真斗くんも同じなのか何か言おうとしては口を開閉させ、それをごまかそうとお茶の入った湯飲みを口につけていた。
おかわりでもいれようと腰を浮かせかけたとき、ようやく真斗くんが声を発した。
「連絡もなく来てしまってすまなかったな」
「気にしないでください。……その、久しぶりに会えて嬉しかったので」
緩ませた頬が一瞬で熱くなるのを感じる。でもわたしは少しでも長く真斗くんを眺めていたくて、顔は逸らさないでいた。
最近はお互いに忙しくて顔も合わせる時間もなかったので、その分の補充と言わんばかりに顔を見つめる。真斗くんが小さく俺もだ、と呟いたあと、視線が絡み合う。
「俺もハルに会えて嬉しい。ところで、今日は何をしていたのだ?」
「曲を作っていました」
「……無茶はしていないか? きちんと睡眠時間を確保しているか?」
「大丈夫です。今日も8時間睡眠でしたし」
「そうか」
話しているうちにわたしは真斗くんの顔をもっと近くで見たくなって、お茶をいれるついでに席を立ち隣に座った。
座ってから、勝手に座ってよかったのかなと少し不安になったので、緊張しながら様子をうかがってみると真斗くんは小さく微笑んでくれた。
満面の笑みとまではいかないけれど、そっと口元を綻ばせる様は真斗くんらしいと思った。
わたし達はどちらからともなく指をからませ無言のまま、寄り添った。隣にある体温が心地よくてつい微睡んでしまう。

ふと、真斗くんの視線がピアノの方へ向く。
「ハルのピアノを、聴かせてもらえないだろうか」
「わかりました」
隣に座ったばかりなのに離れてしまうのは少し寂しかったけれど、絡ませていた真斗くんの指を解き立ち上がり、作りたてほやほやの楽譜を譜面台に並べ椅子に腰掛ける。
ピアノの鍵盤に重みをかけ、ひとつひとつ丁寧に音を奏でていく。全身でリズムを取りながらペダルを踏み、最後の一音まで心をこめて演奏をする。
一通り演奏が終わった後、真斗くんがピアノの側に近づいてきた。
「ハル」
「なんですか?」
「俺も一緒に弾いていいだろうか」
「もちろんです!」
真斗くんはわたしの右隣に腰を下ろすと白い鍵盤を静かに鳴らす。わたしもそれに続き演奏を始め、二人で共に白と黒の鍵盤を奏でた。
腕を動かす度に真斗くんの腕が近づいて、わたしの心臓はどきどき、どきどきと早鐘を刻んでゆく。
他の人と連弾してもきっとこんなに心臓はうるさくならない。真斗くんとだからどきどきして、それだけじゃなく浮き立った気持ちにもなる。
いつもは一人で弾いていたから久しぶりの連弾はとても楽しくて、自然と頬が緩んでいた。演奏が終わり、手を鍵盤から離し膝の上へ置く。
真斗くんも同じように鍵盤から手を離したと思ったら、彼の手は膝の上ではなくなぜかわたしの手に被さってきた。

「……ハルの手は、暖かいな」
「……っ」
頬が熱くなるのを感じながら真斗くんの方へ顔を向けると、青い瞳がわたしをじっと見つめていた。
目があった途端微笑まれたのでわたしも微笑み返し、そのまま数秒見つめ合う。何か言おうとしてもうまく出てこない。けれどこの無言の空気が、今はとても心地いい。
このまま時が止まればいいのに……そう思った瞬間、小さなリップ音に沈黙を破られた。
「!」
驚きに目を見開く。わたしの見開いた目に映り込んだのは、先程よりも近い位置にある真斗くんの睫だった。
唇に触れる熱に戸惑い、脳が混乱する。ぐるぐる、ぐるぐると目が回りそうになりぎゅうっと目をつむる。
ちゅ、と唇同士が離れる音とともに、今度はおでこに温もりを感じる。何事かと目を開いてみると真斗くんのおでこがわたしのおでこに合わさっていた。
「あああああの……」
わたしが頬を真っ赤に染めながらどもると、真斗くんの頬も釣られて赤くなり、顔をそらされてしまった。横髪の隙間から真っ赤な耳が見える。
一瞬それに触れたくなったけど、我慢した。
「……すまない」
真斗くんは横を向いたまま頬を気まずそうに掻くとわたしに視線を戻す。
「ハルの唇が、キスして欲しいとでも言いたげだったので、つい」
「え?」
わたしは酸欠の金魚のように口をぱくぱくとさせながら、殊更頬を赤く染めてしまう。
真斗くんと顔を合わせるのも恥ずかしくて思わず俯くと、申し訳無さそうな声が降ってきた。
「嫌だったか?」
ああもう、いちいち聞くなんてずるい。嫌なわけがない。ただびっくりしたというか、恥ずかしかったというか、……わたし、そんな欲求不満そうに見えたのかな。
弁解しようと脳内で色んな言葉を思い巡らせた後、やっとのことで口を開くけど出てきたのはたった一言だけだった。
「嫌じゃ……ないです……」

再び、二人の間に沈黙が訪れる。なんだか今日は二人して黙ってばかりだ。でも、言葉にしなくてもその分触れ合えればいいのかもしれない。
重なったままの手を見つめる。真斗くんはわたしの手を暖かいと言ったけれど、真斗くんの手もとても暖かくてわたしの心を満たしていく。叶うことならばこの手を一生離したくないと思う。
真斗くんの触れていない方の手が、わたしの頬に添えられる。
「……もう一度、してもいいだろうか」
「……はい」
そろりと顔を上げると、真斗くんはまっすぐにわたしを見ていた。熱のこもった瞳に取り込まれそうになる。
わたしはそのまま、真斗くんの腕に引き寄せられ……優しく降ってくる、とろけそうなほどに甘いキスを、受け入れた。