春歌ちゃんが猫になった後の世界線(AS)での翔春です。

子犬とワルツ

窓から差し込むお日様の温もりがぽかぽかしていて、少しだけまどろんでしまう午後。
自室でのんびり曲を作っていたら、お隣の翔くんの部屋から、何やら突然ガタガタッ! と物音がしました。
続いて、ワンワンワン、と子犬の鳴き声も聞こえてきます。

(あれ? 翔くん、わんちゃん飼ってたっけ?)

寮はペット不可じゃないから、最近飼い始めたのかな。
そういえばここ何日か仕事が詰まっていて、翔くんとは会っていません。
もしかしたら会わない間に迎えていたのかも。
そう考えている最中も、変わらずガタガタという音が聞こえて、子犬と遊んでいるにしては大きすぎる物音に首をかしげる。

(それにしても、ずっとわんちゃんが鳴いてるなぁ)

しかも普通のはしゃいでるようなものじゃなくて、まるで助けを求めているような鳴き声で……ちょっと心配になってきました。
もしかして、わんちゃんが一匹でお留守番をしていて、家具にぶつかっちゃったりしたのかな?

(様子を見に行ってみよう)

翔くんの部屋の前まで行って、インターホンを鳴らしてみたけれど、数分立っても人の気配はしなかった。
どうやら翔くんは部屋にいないみたいです。
何の気なしにドアノブを引っ張ってみると、鍵を閉め忘れていたのか、扉が開いてしまいました。

(鍵を締め忘れちゃったのかな? でも、勝手に入っちゃだめだよね)

そう思って一度扉を閉めようとすると、閉めかけた扉の隙間から、小さな瞳がこちらを見ていることに気づいた。

(やっぱり、わんちゃんがいたんだ……!)

小さなわんちゃんはどこか見慣れた毛の色、珍しい淡いブルーの目をまんまるにしてこちらを見ている。
そんなにつぶらで濡れた瞳に見つめられたら――翔くんごめんなさい、やっぱり放っておけません……!

「お、おじゃまします」

ドアを開けて玄関へ進む。子犬はわたしの顔を見ると、何か言いたそうに喉を鳴らした。

「ご主人様がいないときに勝手に入ってごめんね」

その場にしゃがみこんで手を伸ばし、あごの下をこしょこしょとくすぐるみたいに触る。
気持ち良さそうに目をすがめたタイミングでそっと抱き上げ、改めて顔を見つめた。

「ふふ、なんだかこの子、翔くんに似ているかも」

ふわふわの毛を撫でながらリビングまで進み、部屋を見渡したけどやっぱりどこにも人の姿はない。
でもテーブルの上に雑誌は広げっぱなしだし、テレビもついてるからちょっとでかけているだけなのでしょうか。

「翔くんはどこへ行ったのかな。あなたは何か知ってる?」

近くのコンビニにでも行ったのかなと思って尋ねてみると、ふいっと横を向かれてしまいました。
翔くんがいないのに、この部屋にお邪魔するのは良くないとは思う。
でも、一匹だけで鳴いていたわんちゃんが心配で、もう少しの間だけ、部屋で待たせてもらうことにしました。

「翔くん、早く帰ってくるといいね」

ソファに座って、わんちゃんを膝に乗せてから頭を撫でる。
ふわふわの毛並みが気持ちよくて、ずっと触っていたくなる。
室内には温かい夕日が差し込んでいて、手を動かしながらついうとうとしてしまう。

(そういえば最近、ちゃんと眠れてなかったなぁ)

作曲の仕事が楽しすぎて夢中になってしまい、最近まとまった睡眠を取れていなかったことを思い出す。
まどろんだ後に、少しの間なら……と目をつむったわたしは、そのまま意識を手放したのでした。

***

「……ん……」
髪の毛がだれかに触られているみたいで、少しくすぐったい。
ゆっくりと目を開けると、まず視界に入ったのは、見慣れた綺麗な金髪。

「え……」

パチパチとまばたきを繰り返すうちに、驚きに見開かれた目と視線がぶつかりあう。

「うわっ、ごめんっ」

目の前には翔くんがいて、わたしと目が合うなり慌てて飛び退いた。

「翔くん……? あれ、さっきまでここにわんちゃんがいて……」

ずっと抱っこしていたはずの存在がいなくなっていることに気がついて、翔くんに尋ねてみる。

「あ……ああー、あいつな、うん。あいつは俺――の、友達の犬を預かってただけだから」
「そうだったんだ……勝手にお部屋に入ってごめんなさい」
「いいよ、鍵開けっ放しにしてた俺が悪いんだし。心配して見に来てくれたんだろ?」

にこっと見せてくれた笑顔に、翔くんが怒っていないことがわかって安心しましたっ。
ふと窓の外を見ると、日も落ちてすっかり暗くなっていた。そのまま視線を時計の方へ動かす。
翔くんの部屋にきたのは確か夕方だから、一時間くらい寝ちゃってたみたいです。

「夜打ち合わせとか入ってる?」
「いえ、何もないです」
「じゃあ、夕飯一緒に食べようぜ」
「はいっ」

久しぶりに会えた翔くんからの、嬉しいお誘い。
断る理由はどこにもありません……!
それから、わたしたちは一緒に料理をして、夕飯をすませたのでした。

***

夕食後、翔くんが以前から見たいと思っていた映画が放映されるとのことで、一緒に見ることになった。

「ラブストーリーなんだけどさ、男が見てもかなり楽しめるらしくて」

翔くんがそう言いながらテレビをつけると、綺麗な女優さんとかっこいい俳優さんが画面に映しだされた。
物語が展開されていく中で、ヒーローとヒロイン、二人の顔が近づいてロマンチックなキスが交わされる。
見ているこちらまでドキドキしてきて、隣にいる翔くんの顔をこっそり盗み見る――と。

「……っ……!」

ぱちりと、視線があってしまいました……!
恥ずかしくなって、でも顔はそらせなくて、そのまま翔くんの瞳を見つめる。
すると、翔くんの顔が近づいてきて。

(……キス、するんだ)

唇が触れる予感にぎゅっと目をとじる。
でもその瞬間、ボンッ! っという不思議な音と共に煙がもくもくと立ち込めました。
目を開けると翔くんの着ていた服だけが取り残されていて……と、思いきや、無造作に落ちている服の下がもぞもぞ動いてる。
ひとつ思い至ることがあって服をどかしてみると、そこにはさっき翔くんの部屋にいたわんちゃんがいました。

「……?」

目をごしごしこすってみるけれど、脱ぎ散らしたような服と一匹の子犬がいる光景は変わらない。
どうやら夢を見ているわけでもないみたいです。

「もしかして、翔くん?」

恐る恐る訊いてみると、目の前にいる子犬姿の翔くんが、がっくりとうなだれた。


キーボードをてちてちと叩く子犬の手。
その動きに合わせて、パソコンのモニターには文字が入力されていく。

「気づいたら、こうなってた」

文字をひと通り打ち終わってから、わたしの方を見上げる翔くん(子犬姿)。
そのうるうるとした瞳がとっても可愛らしくて、思わず悶えそうになってしまったけど。
これはもしかしたら、呪いの一種かもしれない、という考えが浮かびました。
というのは、以前、わたしが呪いにかけられてしまったとき、人間の姿ではなく子猫の姿になったことがあったから。

すぐにセシルさんに電話をしてみると、電話越しでも呪いの気配がすると分かったみたいです。
もしかしたら、わたしが以前かけられた呪いが少しだけ翔くんに移ってしまったのかも、とのことでした。

『一度解けた呪いは、効果が薄い。ショウに降りかかっている呪いが春歌から移ったものなら、時間がたてば自然と元に戻るはず』

だからさっきは急に元の姿に戻ったんですね。
なるほど、と相づちをうっていると、携帯越しに聴こえるセシルさんの声が、わずかに沈んだ。

『ただ、ショウ本人の気持ち次第では長引くかもしれません』
「気持ち次第?」
『例えば、人間に戻りたくない、と考えてしまえば、呪いはまた発動してしまうのです』

セシルさんとの電話を終えた後、携帯を手にしたまま、横目で姿の変わった翔くんを見る。
あの時一度呪いが解けたなら、そのまま元通り人間の姿になるはずなのに。

(人間に戻りたくないなんて、そんな事を思うほど、悩みでもあったのかな……)

アイドルの仕事のことが不安なのかなとも思ったけれど、最近は順調だって言ってました。
仕事で接する人達との対人関係の悩みがあるとも、話していなかった気がします。
じゃあ、他に何があるんでしょう。

(もしかして、わたしの事……かな)

ふとよぎったのは、わたしと恋人同士になったことを後悔してるんじゃないかってことでした。
翔くんは今をときめくアイドル。
本当は恋人を作っちゃいけないけど、特例としてわたし達の関係を認めてもらってる。
だけど、と胸をざわつかせたまま、翔くんに問いかける。

「最近、何か不安なこと、悩みとかあった?」
『いや、特には』
(……うーん、やっぱり何かありそう)
人間の姿じゃなくてもなんとなく分かる、悩みがあるような感じの顔。
思考がネガティブになっているからか、不満があるのに言えないような、そんな表情に思えた。

「もしかして、わたしに関係してるとか……」

そう言うと図星だったらしく、翔くんの動きが止まった。
しっぽも耳も、しゅんと落としている。

「わたしにも何かできることとか、ありませんか……?」
『できることっていうか』

そこまで文字を打ち込んだ時、くしゅん、と子犬の翔くんがくしゃみをして。
同時に、ぼんっと白い煙がもくもくと上がりました。
そして煙の中に人間の影が見えて、

「あ、戻っ――」

そこまで言いかけて、はたと動きを止める。
慌てて横を向くけど、ちょっと遅かったみたいで、翔くんの悲鳴が部屋に響く。

「うわ――――っ!」

なんということでしょう、翔くんが人間の姿に戻ったのは良かったのですが……。
子犬の姿になった時に服が脱げていたせいで、は、肌がちらっと現れてしまいました!
両手で顔を隠すも、指の隙間から翔くんの様子が見える。

(わ、腹筋が……!)

さすがアイドル、身体もちゃんと鍛えられてるんですねっ。
翔くんが慌てる一方で、わたしはかなりドキドキしていたのでした――


呪いは本当に一過性で、不安定なものだったようです。
わたしの目の前には、人間の姿に戻った翔くんがいた。
翔くんの着替えが終わり、落ち着いてからお互いに正座をして向き合う。

「それで、翔くん」

いざ聞いてみるのは緊張するけれど……何か悩みや不安があるのなら、パートナーとしてお手伝いがしたいです。

「わたしに関係する悩みがあるんですか?」

翔くんは、あー、とかうーん、と唸ってから、覚悟を決めたようにわたしに向き直る。

「もしかして、別れ話ですか……?」
「は? 何言ってんだよ。そんな事言うわけねえだろっ」

どうしてそんな考えになるんだよ、とおでこをコツンとされました。

「す、すみません……」
「いや、別にお前が謝ることじゃないし……。悩み、打ち明けても引かねーか?」

引くような悩みって、なんでしょう?
てっきり別れ話を切り出されるとばかり思っていたので、まったく検討もつきません。
首を縦に振ると、翔くんはしばらく押し黙ってから、頭をガシガシと掻いた。

「…………本当に?」
「はい」
「……俺らさ、付き合ってしばらく経つじゃん」
「う、うん」
「それで、恋人同士っていったらやっぱり触りたくなるだろ。キスしたり――その先も」
「!」

頬を真っ赤にした翔くんに釣られて、わたしの顔も熱くなる。
キスは何度かしたからちょっとは慣れてたけど、でも、その先って……!
考えただけでも頭から煙が出そうですっ。

「今まで何回かキスしたことあるけど、その度に止まれなくなりそうで、それが不安だったんだよ……っ」

耳まで赤くなった翔くんが、拳を握りながら打ち明ける。

「でも、そんな事話すわけにもいかねえし、いっそ犬のままでいた方が暴走しなくて済むんじゃないかって一瞬考えたりもした。
すぐに考えなおしたけど」

ええと、つまり。
翔くんは、キスをしたり触れているうちに、もっと先に進みたくなりたくなっていた。
けど、心のブレーキが効かなくなりそうで、堪えつつも悩んでいた、ということでしょうか。

「翔くんは、キスよりもっと進んでみたい……と」

確認の意味を含めて尋ねてみたら、翔くんはたっぷり数十秒の間、口をモゴモゴさせて、

「…………はい」

と、頷きました。
……うう、どうしましょう。

(キスの先、かぁ)

それは、言葉にするのも恥ずかしいような行為。
何をするのかはなんとなく知っているけれど、そんなことわたしにできるのかな、と怖気づいてしまう。
けれど――

「……大丈夫。翔くんの気持ち、全部受け止めます」

大好きな人に触れたくなる気持ちは、誰しもが持つものだから。
翔くんが望むなら、わたしはそれに応えたい。

「本当かっ?」

俯いていた顔を上げ、翔くんはわたしの顔を見つめてくる。
はい、と返事をすれば、緊張した表情の翔くんが近づいてきて、ゆっくりと唇が重なった。

「んっ……」

いつもより長い口づけに、頭の中がぼんやりしちゃう。
唇は一度離れてから再びくっついて、だんだんと呼吸が苦しくなってきました……っ。

「し、翔くんっ……」

緊張のあまり、キスをするときにどうやって息を吸っていたか忘れてしまいそうになって、目尻に涙が浮かぶ。
そんなわたしを見て、翔くんは我に返ったように距離をとった。

「あああ、やっぱり無理っ」
「えっ……」

やめちゃうの? と様子をうかがってみれば、後ずさった翔くんが勢いよく頭を下げてきた。

「いや、正直もっと触りてえけど……っ! 今のままだと、マジで加減できそうにないから、ごめん!
絶対乱暴になんかしたくないし、お前もまだ心の準備できてないだろうし」

翔くんのしたいようにして欲しいと思っていても、緊張で体が硬くなっていたのを見透かされていたみたいです。

「翔くん……」

春歌のことをもっと大切にしたいんだ。と話す翔くんが、何よりも愛おしくなる。
男の人に、そういう欲求があるのは当たり前のことらしい。
そんな中でも、翔くんはわたしを気遣ってくれている。
その気持ちが嬉しくて、汗ばんだ彼の手をそっと握った。

「大切に、してください」
「……おう」
「わたしも、翔くんのこと、大切にしたいです」

そう伝えると、返事をするように手が握り返される。
わたしよりも少し大きくて、骨ばっている優しいこの手が、大好き。

「もしまた何か悩みがあったら、その時はきちんと話してください。翔くんの話なら、いつでも聞きますから」

お役に立てるか不安な部分もありますが、翔くんの為なら精一杯頑張りたいですっ。

「ありがとな。もしかしたら、一人で悩みすぎてたのかもしれねぇ……って、
お前も悩みを溜め込むタイプなんだから、なんかあったらすぐ言えよっ」
「うん、ありがとう」

ふふ、と小さく笑い合って、お互いのおでこをくっつける。
その温もりに、いつかそういう日がきても、安心してすべてをゆだねられる気がした。
わたし達はわたし達らしいペースで、ゆっくり付き合っていこう。
ね、翔くん。