Miracle World

アインザッツ×ハルカ

『月に祈りを』

 わたしは、二階を先に見ることにした。
 階段を上り、二階の廊下へ出る。
 二階の廊下は一階と同じで木製の扉がいくつも並んでいたけれど、部屋にはそれぞれ鍵がついていた。
 ドアノブを回してみても鍵で施錠されていて開かない扉ばかりで、ほとんどの部屋が見られず、わたしは結局一番奥にある扉の前まで来てしまった。
 緊張しながらドアノブに手をかけ、ゆっくりと回す。
 どうやらここの部屋だけは鍵がかかっていなかったようで、ギィ……と鈍い音がして扉が開いた。
 室内へ入ってみると、ここも他と同じように室内の家具が埃を被ったまま、手付かずの状態だった。
 部屋の壁には様々な仮面が飾られたまま放置されている。
「わぁ、すごい」
 女性用の仮面が並べられた横に、男性用の仮面もある。
 顔全体が隠れるタイプのもの、顔の半分だけが隠れるタイプのものなど、両手でも数えきれないほど種類があった。
 その一つ一つを見ていくうちに、わたしは「あっ」と小さな声をあげた。
「あの仮面、アインザッツ様がつけていたものと似てる」
 以前見たものを直接脳裏に描くように、目を閉じる。
 舞踏会の夜、アインザッツ様と初めてお会いしたときのこと。
 あのとても綺麗な歌声――思い出すだけでも、胸が温かくなる。
(この温もりは一体何なんだろう)
 彼は楽師ではなく怪盗で、わたしはネックレスを盗まれてしまったけれど……アインザッツ様は、どこか憎めない雰囲気があった。
 あの歌声をまた聴いてみたい。願わくば、音楽について語らいたい。
 ……そう思っている事は、お兄様達には秘密だ。
(叶うなら、アインザッツ様が一度出頭して罪を償ってくれたら、それが一番良いんだろうけど……)
 何の理由があって彼が宝石を盗んでいるのかは知らないけれど、罪は罪だ。償わなければいけない。
 お互いに罪などない、真っさらな状態で音楽を奏でられたら……などと思い耽っていたら、後ろから突然声をかけられた。
「ねぇ、そこで何してるの?」
「ひゃあああっ」
「っわ、急に大きな声出さないで。びっくりするでしょ」
 飛び上がってしまうほど驚いて、声がした方へ振り向く。
「あ……すみません、驚いちゃって……」
 つい癖で、いつも通りお辞儀をしてしまったけれど――おかしいな、今この洋館の建っている辺りに一般人は入れないはずだ。
(もしかして、お兄様の仕事仲間が来たのかな)
 そう思って、顔を上げる。
 そしてそこにいた人物を見て、わたしは目を丸くした。
「あなたは、昨日の……」
「奇遇だね」
 にこりと微笑む顔は、昨日見たばかりの顔だった。
 市場へ買い物をしにいった時に、果物を拾ってくれた親切な男の子だ。
「どうしてここに……?」
 問いかけても返事はなく、わたしと彼は沈黙に包まれる。
「何、その顔。もしかして、ボクを忘れちゃった? 酷いね、声を覚えたから……って言っていたのに」
 言葉が紡がれる度に、段々と高くなる声。
 確かに聞き覚えのある、その綺麗な声は――
「あなたは、もしかして」
「……そう、ボクがアインザッツだよ」
 目の前の男の子は、まず目深に被っていたキャスケット帽を取り払った。
 それから顎の辺りに手をやって、一気にその手を持ち上げると……。
「……っ!」
 そこにいたのは確かにあの舞踏会の夜に出会った、アインザッツ様と同じ顔だった。
 そうだ、だからわたしはこの人の声にこんな既視感を覚えていたんだ。
 どうして今まで気づかなかったのだろう。
 突然の再会に足がすくみそうになったけど、必死に平静を保った。
「どうやって入ってきたんですか? 入り口には、見張りがいたはずです」
「盗みに来るのに正々堂々と入り口から入ってくる怪盗っているの?」
 確かに、と頷きかけて、内心首を振る。
 どうしよう、今すぐお兄様に知らせないと……。
「でも、他に入れるような場所は……」
「なかったから窓の鍵をこじ開けて入ったんだよ」
 なんとか時間を稼いでみようと会話を続けようとしたけど、ぐいっと顔を近づけられ、硬直してしまう。
「昨日会った時も思ったけど、あの夜と髪型や化粧が違うから、随分と違う印象に見えるね」
 アインザッツ様は自らの顎に手をやると、わたしの顔を穴が空くんじゃないかと思うほど凝視してきた。
「意外と幼いというか……」
 目を逸らすタイミングすら掴めなくて、アインザッツ様の瞳を見つめ返す。
 本当に綺麗な瞳……。
 この人が怪盗だなんて、初対面の人は気づけないだろう。
 アインザッツ様はわたしの顔を見て満足したのか、ふぅ、とため息をついて身を翻した。
「……まあ、無駄話はこの辺りで。めぼしい宝石なんてなかったし、噂はあてにならないな」
「っ、どこに行くんですか」
「どこって……帰るんだけど」
「帰しませんっ」
「だめだよ、君はボクが警察に捕まってもいいの? ボクは牢獄で拷問されるなんてごめんだよ」
「それは……」
 せっかく会えたこの人を逃したくはない……と思う反面、この人が警察に捕まるのは嫌だと叫ぶ自分もいる。
 もし本当に拷問なんてされて、この人の命にまで何かあったとしたら、わたしはきっと一生後悔するだろう。
 彼の目を見れば見るほど、もっとこの人のことを知りたいという欲まで湧き出てくる。
 とりあえずわたしは、彼の目の前に立ちはだかり、両手を広げて行く手を阻んだ。
「じゃあ、わたしも連れて行ってください」
「……はあ?」
 不思議そうな顔をする彼の手をぎゅうっと掴み、顔を見据える。
「つ、連れて行ってくれないのならこの手は離しません! たった今、わたしはあなたを捕まえました!」
「君、自分が何を言ってるかわかってる?」
 呆れたような顔でアインザッツ様がわたしの手を振りほどこうとする。
 でも、渾身の力を振り絞って意地でも彼の手を離さずにいた。
「わかっていますっ」
「ボクに連れて行かれたら、もう二度と家へ帰れないかもしれないよ」
「っ……」
 大好きなお父様やお母様、それにお兄様の顔が次々と浮かんでくる。
 家族の皆は、わたしが急にいなくなったら驚くだろうし、何より心配をかけるだろう。
 だけど――目の前にいる彼は、今ここで逃してしまったら二度と会えない気がした。
「それでも、離しません」
 強い意思を伝えるように、彼の目を正面から見据えた。
「……そう、わかった」
 アインザッツ様はまたため息をついて、わたしの体をひょいと抱き上げる。
「え、あの」
 おそらくアインザッツ様と一緒に連れて行ってもらえるのだろうけど、抱き上げる必要性がわからなかった。
 頭上に疑問符を浮かべていると、アインザッツ様は苛立った様子でわたしを急かしてきた。
「早く、ボクに掴まって」
 慌ててわたしが首に抱きつくと、彼はそれを見届けてから部屋の窓を開け放ち……、
 え、嘘ですよね、ここ二階ですよ?
 そんな質問をする暇もなく、二階の窓から身軽に飛び降りた。
「っきゃああああ――!」
 胃が浮遊する感覚に、思わず叫んでしまったけれど。
 わたしの悲鳴は、ただ夜の空へ吸い込まれていくだけだった。


 アインザッツ様に連れられてやって来たのは、彼の隠れ家だった。
 不幸なことに、アインザッツ様の移動スピードがかなり速かったので、どういった道順でここまで来たのかは不明だった。
 ……つまり、わたしは本格的に一人で家へ帰ることができなくなった。
(でも、自分で連れて行ってと言ったんですし……)
 とりあえず今自分が置かれている環境を理解しようとして、周囲をきょろきょろ見回す。
 するとアインザッツ様が不可思議そうな顔をして、わたしに声を掛けてきた。
「何か珍しいものでもあった?」
「いえ……。あの、アインザッツ様はお一人で暮らしているんですか?」
 普通の家ではなくて隠れ家だからか、家財も何もかもの量が少なすぎて、とても二人以上の人間が住んでいるとは思えなかった。
「そうなるね。身寄りはないし」
「え……」
 案外さっくりと返答を寄越されたけど、身寄りがないという一言に頭の中が真っ白になる。
 もしかして聞いちゃいけないことを聞いちゃったかな……。
 でも、答えてくれたって事はあんまり気にしていないのかな……?
 ちょっとだけ気まずくなって、わたしは黙ってアインザッツ様の顔を見つめてしまう。
「どうかした?」
「いえ……」
 ぶんぶんっと首を振った時、ぐるぐるとお腹が鳴る音が聞こえた。
 しかもその音はアインザッツ様ではなくて、わたしのお腹から発生していた。
「お腹空いてるんだ」
 指摘されて、顔が熱くなる。
 ううう、恥ずかしい……。
 だけど、アインザッツ様はそれ以上わたしをからかいもせず、淡々とキッチンを指さした。
「食材はあるから適当に使って何か作ってもいいよ。あ、ボクの分はいらないから」
「あなたは何も食べないんですか?」
「空腹を感じたら食べるけど……」
 それはつまり、お腹が空かなければ食べないということでしょうか。
 初めて会った時、彼はわたしを同い年に見えると言ったのだから、まだまだ成長期のはず。
 成長期なら、きちんと朝昼晩の三食は食べないと……!
「ちゃんと食べなきゃダメですっ」
 なんだか急に、彼が細くてか弱い存在に思えて、わたしの中の母性本能がメラメラと燃え出した。
「わたしと同い年くらいなら、尚更ですよ」
「……そう?」
「わたしが作りますから、一緒にご飯を食べましょう」
 食材があると言っても、必要最低限の食材と調味料くらいしか無かったので、そんなに大したものは作れそうにない。
 それでもどうにかして食材をかき集めて料理し、煮込んだスープとパンをテーブルの上へ並べる。
 料理をしている間、アインザッツ様は特に出かけもせず、物珍しそうにわたしを見ていた。
「できました! さあ、どうぞ座ってください」
「いただきます」
 自分の空腹など気にせず、ドキドキしながらアインザッツ様の反応をうかがう。
 彼はスープを一口飲むと、すこしだけ目を見開いて微笑みを浮かべた。
「……おいしい」
 次々とわたしの作った料理を口に運んでいくところを、しばらくの間見守る。
 アインザッツ様に見つめられて緊張しながら作ったから、調味料を間違えたとか、ミスをしていないか不安だったけれど、これなら大丈夫そうだ。
「ありがとうございます」
 安心したら余計に空腹を意識し始めてしまったので、わたしはまたお腹が鳴らないうちに、自分で作った料理を口に運んだ。

 使った食器を洗って片付けた後、時計を見ると日付が変わるような時間帯になっていた。
 同年代の異性と二人きりだと言うのに、この数時間で安心しきってしまったわたしは、のんきにあくびをして暖炉の火を眺めていた。
(昨日今日で、色んなことがあったなぁ……)
 一昨日の自分が今の自分を見たら驚いてしまうだろう。
 何しろ、あのアインザッツ様の隠れ家にまで付いてきてしまったのだから。
 そこで、ふとお兄様の事が頭に浮かんだ。
 黙ってアインザッツ様の所へ来てしまったから、きっとすごく心配してるだろうな……。
 それに、お兄様は盛大な罠を仕掛けていたのに、結局アインザッツ様を捕まえられなかったから、もしかしたら上司に大目玉を食らっているかも。
 不甲斐ない妹でごめんなさい、と心の中でお兄様に向かって謝る。
(ここに魔法の鏡でもあれば、家族の様子を見ることができたのに)
「何か考え事でもしてるの?」
「ひゃっ」
 突然声を掛けられて、心臓が早鐘を打った。
「すす、すみませんっ」
「……別に、謝る必要なんてないんだけど」
 アインザッツ様はなぜかわたしの隣に腰を下ろした。
 そしてどこからか持ってきた毛布をわたしに差し出したので、戸惑いながらもそれを受け取り、肩にかける。
「アインザッツ様は、いつもどこで寝ているんですか?」
「この辺りで、適当に」
 ちょうどわたし達が座っている辺りを見つめる。
 この隠れ家には別室なんてものはなかったから、ご飯を食べるのも眠るのも同じ部屋でしているんだろうなとは思ったけど……。
 いつも床に直で寝ているんでしょうか。
「あの……アインザッツ様の毛布とかは?」
 室内を見渡す限り、アインザッツ様が自分で使えそうな寝具は見当たらなかった。
 ……もしかしてこの毛布こそ、いつも彼が使っている毛布なのかな?
「いま君に貸してるのがそうだけど。もしかして、ボクがいつも使っていたものじゃ嫌?」
「そんな、滅相もございません! 貸してもらえるだけでもありがたいというか……」
 それならいいや、とアインザッツ様がつぶやく。
(毛布が一枚しか無いなら、わたしがこれを独り占めしちゃだめですよね)
「……一緒に使いましょう」
 おずおずと毛布を広げ、アインザッツ様の肩にも掛ける。
 彼は一瞬驚いた顔をしたけれど、拒絶はされなかった。
 一方のわたしは、自ら縮めた距離に不覚にも彼を意識しだしていた。

 パチパチと燃える炎を眺めて、なんとなく尋ねてみる。
「答えたくなかったら、答えなくても構いませんが……どうして、あの洋館に来たんですか? あなたなら、噂は罠だと気づいたはずです」
 アインザッツ様は少し考える素振りをして、正面を見たまま口を開いた。
「あの洋館、元々はボクの家族の持ち家だったんだ。色々あって皆あの家からいなくなってしまったけど」
 ぽつりぽつりと紡がれる言葉に、静かに耳を傾ける。
「罠だってすぐに分かったけど、しばらく寄り付いてなかったし、たまには見に行ってみようか……と思ったんだよね。昔はよく行っていた家だったし」
「そうだったんですか……」
 膝を抱え、アインザッツ様の横顔を見る。
 洋館の持ち主が家族だったという事は、アインザッツ様は元貴族なんだ。
 そんな彼がどうして、宝石専門の怪盗なんかになったんだろう……?
 お金に困っているなら、もっと別の手段がありそうなのに。
 心のなかでもやもやと考えていたら、アインザッツ様に先手を打たれてしまった。
「ああ、ついでに。聞かれないうちに答えておくけど、ボクは基本的には違法な手段――いわゆる裏ルートから宝石を手に入れた奴らからしか、宝石を盗まない主義だから」
「そ、そうなんですね。なるほど」
 考えている事を見透かされ、挙動不審になりながら相槌を打つ。
 わたし、そんなに顔に出てたかな……。
「じゃあ、ボクからも質問させて」
 ぐいっと距離を詰められ、アインザッツ様の綺麗な顔が目の前に来る。
「君は音楽に詳しいみたいだけど、どうして?」
 間近で首を傾げられ、わたしも一緒になって首を傾げそうになった。
 姿勢を正して、今度はわたしが質問に答える。
「小さい頃からピアノを弾くのが好きだったもので」
 ピアノを弾くように、床の上で指を動かす。
「わたしは影が薄いので、友達なんてほとんどできなくて。それでも、ピアノを弾いている間は悲しいこととか辛いこと、全部忘れられて、まるで音楽と一つになってるみたいに楽しくて……」
 明るくない話なのであまり他人には教えたくないのだけど、不思議な事にアインザッツ様に対してはすらすらと話してしまった。
「なるほどね」
 お互いの秘密を打ち明けたからか、最初にあった緊張感やぎくしゃく感はだいぶ薄れてきた。
 さっきよりも近くなった距離で、お互いに他愛ないことを話していたら、アインザッツ様が歌を歌い始めた。
(本当に、天使みたいな声)
 優しく揺れるビブラートに心が安らぐ。
 ここにピアノがあれば、わたしも演奏できたのに。
 今のわたしとアインザッツ様の立場がもどかしい。
 もっと違う場所で出会えたら、また違う関係を築けたかもしれないのになぁ……。
 空腹も収まり、耳に心地よい歌声が聴こえるのも相まって、だんだん瞼が重くなってくる。
 気がつけば、わたしは――安らかな眠りの世界に誘われていた。

 
 それから数日の間、わたしはアインザッツ様の隠れ家で過ごすことになった。
 一人きりになるときもあったから、正直なところ逃げ出そうと思えば逃げ出せたのだけど、わたしは逃げたいとは思わなかった。
 逃げ出したらきっともう二度と会えなくなる。
 彼の歌声を聞くこともなくなる――そう思うと、逃げようなんて気は起こらなかった。
 アインザッツ様が留守にしている間、わたしは彼が買ってきてくれた食材を使ってご飯を作ったり、隠れ家の掃除をして過ごしていた。
 眠る前には暖炉の前で二人で寄り添って、アインザッツ様に歌を歌ってもらうのが日課になっていたし、自分でも驚くほど、穏やかな日常を送っていた。
 だけど今晩は、アインザッツ様がなかなか歌を歌ってくれない。
 何かあったのかと心配になったけど、無理に急かすのも良くないと思って何も言わずにいた。
 しばらく沈黙してから、アインザッツ様が「ねぇ」とわたしに話しかけてきた。
「君はどうしてボクに尽くしてくれるの? 今日まで何回も、逃げ出すチャンスはあったよね」
「それは……」
 アインザッツ様の歌声をもっと聴きたかったから。
 あなたと離れたくなかったから。というのが、純粋な理由だ。
 でも、それを伝える隙なんて与えないかのように、アインザッツ様がわたしに向かって話し続ける。
「舞踏会の夜も思ったけど、君って普通の女の子とはちょっと違うよね。音楽に詳しいし、普通は怪盗に一緒に連れて行ってなんて言わないし」
 そこで一つ、間を置いて。
 アインザッツ様は、疑うような眼差しをわたしに向けた。
「悪い言い方をすれば、変な子だ。君は一体どうしてボクについてきたの。ネックレスを返してもらいたかったから? ボクを警察に突き出したかった?」
 その言葉を聞いて、なんとなく察してしまった。
 ああ、アインザッツ様は、今日までわたしが逃げ出さないか、警察にこの場所を連絡しないかどうかを疑っていたんだ。
 確かに信頼できるような出会い方はしなかったし、過ごした時間もまだ短い。
 けど……あれだけ近い距離で、同じ時間を過ごしていたのに、疑われるなんて思いもしなかった。
 正直、すごく心苦しい。
 なんとかして疑いを晴らしたい。この人だけには疑われたくない、と胸の奥底で何かが叫んでいる。
「……ネックレスは確かに返してほしいです。あれはおばあ様にいただいたものでしたから。だけど、あなたを警察に突き出すなんて……今は考えてません」
「じゃあ、どうして?」
 ゆっくりと間を置いて、どう答えるのかが最善かを考える。
「あなたの事をもっと知りたかったから……です」
 アインザッツ様は黙ってわたしの言葉の先を促している。
「最初は、あなたの歌声に惹かれました。だけど今は違います。声だけじゃなく、あなたのすべてに惹かれていて」
 澄んでいて綺麗な歌声に、澄み切った水色の綺麗な瞳。
 優しいけれどどこか不器用なところ。
 『空腹を感じたら』ご飯を食べると言っていたのに、わたしが料理を作ると毎食きちんと完食してくれるところ。
 眠る前に歌ってくれる歌。
 そのすべてに、わたしは惹かれている。
「もっとあなたのことを知りたいと思うし、それに……あなたを想うと、胸が苦しくなるんです」
 その言葉を言った途端、堰を切ったように涙が頬を伝う。
「……あれ、なんで涙なんか……」
 泣くつもりなんてないのに、頬を伝う涙は止まる気配を見せない。
 ぼろぼろと涙を流すわたしを見て、アインザッツ様は戸惑った顔をした。
「……はぁ。本当、君って変わり者だね」
 上半身をわたしの方へ乗り出し、目尻に浮かんだ涙をすくう。
「アインザッツ様……?」
「どうして泣いてるの?」
「わ、わかりません」
 なぜだか、アインザッツ様の事を考えると涙が出てくる。
 その理由はいくら考えても思い当たらなくて、余計に混乱してしまう。
「なんだろう、今すごくドキドキしてる……。君の泣き顔を見たからかな」
 わたしが泣く一方で、アインザッツ様はさらにわたしとの距離を詰めてきた。
「お願いだから、泣き止んで」
 そして唇に触れた柔らかい感触によって、涙が止まった。
 自分に何が起きているのか、理解するのに時間がかかったけれど、すぐに思考が現実に引き戻される。
 ――わたしは、アインザッツ様に口づけられていた。
「……!?」
「女の子の唇って、こんなに柔らかいんだね」
 喋る度に唇同士がくっつくほどの距離で、アインザッツ様が囁いて。
「んっ……」
 もう一度、唇が触れ合う。
 そのまま見つめ合って……わたしはアインザッツ様に押し倒されていた。
「あの……」
「何? もしかしてここまで来て止めるつもりなの」
「でも、想い合っている人じゃないと肌は見せてはいけないと、教えられていて……」
「……ボク達は、想い合ってないの?」
 肌を重ねるというのは、自分のすべてを相手に見せるということだ。
 わたしはアインザッツ様のすべてを知りたいと思っているから、彼のことを想っているも同然だと考えていたけれど……。
 確認の意もこめて、アインザッツ様の目を見つめた。
「……アインザッツ様は、わたしのことをどう思っているのですか」
「……最初は、面白い子だと思った。次に、変な子。今は……外に出ていても、家の中にいても、君のこと以外考えられないくらいだ」
 ふいっとそっぽを向いたアインザッツ様の横顔が、暖炉の火に照らされて妖艶な雰囲気を醸し出している。
「この感情をなんて表したらいいのか、ボクもよくわからないんだけど……」
 その色っぽい横顔を見た途端、ドクンと心臓が跳ねた。気づかないうちに彼の横顔に手を添え、微笑みかける。
「わたしも、同じ気持ちです。どこにいても何をしていても、あなたのことが頭に浮かんで……」
「胸が苦しくなる?」
 言おうとしたことを先に言われ、わたしは頷いた。
「ボクもだよ」
 ゆっくりと彼の顔が近づき、みたび唇が重なる。
 今度はアインザッツ様の舌がわたしの口内に侵入してきた。
「ん、ふぁ……」
 ドレスの下にひんやりとした手が滑りこみ、ドロワーズ越しにお尻を撫でられる。
 そのまま細い指でお尻を掴まれ、少しだけ後退りしそうになった。
 彼は押し倒したわたしを眺めて艶っぽく笑うと、わたしのドレスを脱がせてからコルセットに手をかけた。
「あ……」
 コルセットを外され、開放感に息を吐く。
 下着もすべて取られて、わたしの肌を隠す布が一つも無くなった状態で、胸に触られた。
「柔らかい」
「そ、そうでしょうか……」
 アインザッツ様も少し緊張しているのか、彼の指はとても冷たかった。
 冷たい指先で胸の真ん中をいじられ、硬くなった胸の先に、アインザッツ様の唇が降りてくる。
 くすぐったさと切なさに吐息を漏らし、わたしは自分の指を噛んで声を抑えた。
「ふっ……ぁ」
 胸の頂きを甘噛みされて、痺れたような感覚が背中を走る。
 胸の上を舌が這うと、アインザッツ様の髪も胸にあたってもどかしい。
 ……それに、触れられれば触れられるほど、お腹の奥が疼いてきた。
 彼はドレスの裾を捲りあげ、ドロワーズを脱がし、やがてわたしの下半身は何もつけていない状態になった。
「んむっ……」
 まるで噛み付かれているように余裕のないキスをされ、わたしは必死になってそれに応える。
「あっ……アインザッツ様……ッ」
 余裕のない手つきで割れ目をなぞられる感触に、思わず声が裏返ってしまう。
「ッ……あ……っ」
 指先で直接敏感な粒に触れられ、電気が走ったような衝撃が体を貫いた。
 アインザッツ様は割れ目を往復するように撫でてから、体の中へ指を忍ばせてきた。
「あ、あっ……んぅ」
 アインザッツ様の肩をつかんで、何ともいえない感覚をやり過ごす。
 彼の指がわたしの中をかき混ぜるたび、ぬちゃぬちゃと淫猥な音が耳を汚していくのが、とてつもなく恥ずかしい。
 首筋にアインザッツ様の舌が這う。
 ざらりとした感覚に、びくびくと反応する体はまるで自分のものではないみたいだ。
 体内にいれる指の本数を増やされ、不規則に動かされてしまえば、わたしの中は熱くうねる。
「すごい、吸い付いてくるみたいだ」
 指を動かされるたびに体の奥から蜜があふれ、しとどに彼の指を濡らしていくのを感じる。
 卑猥な水音が大きくなり始めたとき、アインザッツ様は緩急をつけてわたしの脚の間にある粒をこすった。
「んぁ、あっ!」
 意識せずに出た嬌声に、自分でも驚いてしまう。
 アインザッツ様はその嬌声を封じ込めるように唇を唇で塞いでから、わたしの首筋を強く吸った。
 そこでふと、わたしの太ももの辺りに触れている硬いものに気がついた。
 ……これはきっと、男性特有のあの熱なんだろう。布越しでもわかるその熱量に怯え、アインザッツ様の顔を窺う。
「あの……」
 すると彼は、苦しそうな顔をして着ていた服を脱ぎ始めた。
 カチャカチャと金属のこすれる音がして、次にチャックを下ろす音が聞こえる。
 その一連の動作を唖然と見ていると、アインザッツ様が恥ずかしそうに頬を染めた。
「……そんなに見つめないで欲しいんだけど」
「ご、ごめんなさい……」
 それでも尚、まじまじと熱を見つめてしまいそうになったけど、それよりも先にわたしの両足が持ち上げられる。
(あ…………!)
 ひくひくとうごめく私の熱い場所に、アインザッツ様の熱が押し当てられた。
 肉をかき分けるように入ってくる熱に、思いきり喘いでしまう。
「ひゃあ、ぁっ!」
「はぁ、あ……あッ」
 みだらな熱がわたしを犯す。
 痛くて苦しくて、目尻からはまた涙が零れた。
 アインザッツ様がぐぐっと腰を進めると、わたしの中が彼の形に広がっていく。
「あッ、あああっ」
「……ッ! 随分と、狭いんだね……」
 当たり前だ、まだ誰も受け入れたことがなかったのだから。
 しばらく痛みに耐えながら歯を食いしばっていると、アインザッツ様は腰の動きを止めた。
「……ふぅ、全部入ったよ」
 体の中にある異物感に眉を寄せ息を止めていると、彼の顔がわたしの耳元に寄せられる。
「息吐いて」
「……ッは、あ……っ」
 彼の言う通りに息を吐くと、わたしの中で熱が脈打つのを感じ、頬がより一層熱くなった。
 わたしは今、アインザッツ様とひとつになっている。自覚した途端、もう何もかも戻れない所にきてしまった気がした。
 その後、アインザッツ様はわたしが痛がっていないかを頻繁に確認しながら、腰を動かしだした。
 少しでもわたしが痛がる様子を見せたら一度動きを止めて、また再開させて――
 そんな事を繰り返していたおかげか、あまり痛みも気にならなくなって、頭から爪先までじんわりとした気持ちよさに包まれていく。
 彼もだんだんと手慣れてきたのか、腰を動かすだけではなくてわたしの体のあちこちに口づけたり、舌を這わせたりしてきて、わたしは触れられる度にびくびくと肩を震わせた。
「あっあっ、……んぁっ……っ――」
 そして、ひときわ強い快楽にわたしの中が収縮したとき。
 彼の熱もまた、わたしの中で弾けるのを感じた――

 肌を重ねた後の安らかな微睡みの中で、アインザッツ様がわたしに問いかける。
「なんで君はボクを様付けで呼ぶの?」
 呼び捨てにすればいいじゃない、と言われたので、
「親しい人なら愛称で呼びますけど、あなたとは知り合ったばかりでしたし……それに、呼び捨てにするのはなんだか恐れ多くて」
 と答えると、彼はどこか楽しそうな声音で。
「ふぅん……やっぱり君って、変わった子だね」
 と言ったのだった。


 翌日の朝目覚めると、アインザッツ様はわたしに何かが記された紙を渡してきた。
 紙にはおそらく街と駅のようなものが書かれていて、見覚えのある地名が綺麗な字で記入されていた。
(これ、わたしの家がある場所だ……)
 書かれた図面と、アインザッツ様の顔を交互に見る。
「丸印がついている所が、ここから一番近い駅」
 どういうことか説明を求めるように、彼を見る。
「その駅から列車に乗れば、君が元いた街に着くはずだよ」
 案に家に帰れと言われているのだろう。
 予想外すぎるその言葉に、わたしは目を大きく開いた。指先が一気に冷たくなって、心臓が早鐘を打つ。
「え……」
 うろたえるわたしを見て、アインザッツ様は安心させるように笑みを浮かべた。
「大丈夫、安心して。君を置いてどこかへ逃げたりはしない。でも、ボクはあの日君を黙ってここまで連れてきたんだ。きっと君の家族……レイジーだっけ、特に彼は心配していると思うから」
 震える唇で、なんとか彼の言葉に答える。
「でも、わたしを家に帰したら……この隠れ家のことを、警察に告げ口するかもしれませんよ」
 昨日までアインザッツ様はわたしを疑っていたわけで。
 こんなにもあっさり家に帰されるなんて、逆に怪しく思えてしまう。
 わたしの反応に、彼は困ったように頬を掻いた。
「……昨日、疑った事は悪かったと思ってる。ごめんね」
 そう言って、わたしの額に口づけを落とす。
「でも今の君は、絶対に告げ口なんてしないって信用してるから」
「……わかりました」
 そう言う彼はとても嘘を付いているようには見えない。
「君が家族と話をしたら、また合流しよう。こっちも色々と落ち着いたら手紙を書くよ」
 うろたえるわたしの目の前で、アインザッツ様は洋服のポケットから光る何かを取り出した。
「それと、これを」
 アインザッツ様の腕が顔の近くに伸ばされ、離れていく。
 首元を確かめてみると、わたしの首には舞踏会の夜にアインザッツ様に盗まれたネックレスがつけられていた。
「もう誰かに取られちゃダメだよ」
「はい……。気をつけます」
 疑いが晴れて信用されていて、また彼と会えるというのなら、わたしは喜んで家に帰ろう。
 そうしてわたしは、アインザッツ様に駅まで見送ってもらって――一度、家へ戻ることになった。

 ……緊張のあまり、心臓が爆発しそうなほどうるさく鳴っている。
 胃の中のものを吐き出しそうなのをなんとか堪え、わたしは帰って早々お父様達に頭を下げた。
 留守にしていたのが数日間だけだったから、そこまでひどく怒られはしなかったけれど、もう二度と黙ってどこかへ行かないようにと念を押された。
 ただ残念なことに、お兄様だけは遠方へ仕事をしに行っていて、すぐに謝ることができなかった。
 あの後何事もなかったのかすぐに確認したかったけれど、仕事で出かけているのなら警察を辞めたわけではなさそうなので、そっと胸をなでおろした。
(お兄様が帰ってきたら、ちゃんと謝ろう)
 それから一週間ほど経った日に、お兄様は家へ帰ってきた。

 お兄様が帰宅したと聞いて、わたしは彼の部屋を訪れて床に額を擦り付ける勢いで頭を下げた。
「お兄様、心配かけて本当にごめんなさい」
「……もう、黙っていなくなるなんて。お兄ちゃんは心臓がちぎれそうだったよ。怪我はしてない?」
「はい。どこも怪我はしていません」
 顔をあげてと言われ、恐る恐るお兄様の顔を見る。
 嘘をつくのは許さないと言っているような瞳で、お兄様はわたしと視線を合わせる為に膝をついた。
「どこへ行っていたの?」
「…………」
 アインザッツ様の隠れ家に行っていました、なんて素直に言っていいのかな。
 俯いて黙りこくっていると、お兄様がため息をつく気配がした。
「まあ、なんとなく察しはついてるんだけどさ」
 お兄様が鞄から一通の手紙を出して、わたしに渡す。
 手紙を受け取って、心臓が止まるかと思った。
 今日届いた、わたし宛の手紙。差出人の名前は違うけど、この筆跡はアインザッツ様のものだ。
 それなのに、その手紙はなぜか既に封を切られていた。
「お兄様、これ……」
 震える手で手紙を握りしめながら、お兄様に尋ねる。
「なーんか嫌な予感がしたから、ごめんね。君宛の手紙だったけど中身見せてもらった。……まさか君が、アインザッツとやりとりをしているなんてね」
 目の前が一瞬真っ暗になる。お兄様の言っていることがすべて右から左へ流れてしまいそうだ。
「きみには幸せになってほしいと思う。でも、アインザッツは怪盗だ。今まで何度も盗みを繰り返している。そんな奴を野放しにしておくわけには」
 そう言われて、わたしはお兄様の言葉を遮るように声を張り上げた。
「それはわかっていますっ。彼は確かに許されないことをしました。でも……あんなに綺麗な歌声の人が、悪い心を持っているわけがない」
「きみは、なんでそこまであいつを庇うんだい」
 つい先日、本人に似たような事を聞かれたばかりだ。
『君はどうしてボクに尽くしてくれるの?』
 聞かれた当時は、戸惑ってしまってただ惹かれてるから、としか答えられなかった。だけど、今は違う。
 彼のことをもっと知りたいと思った。
 彼と離れがたいと思った。
 また会いたい、あの熱に触れたい。
 わたしの名前を呼んで欲しい。
 そう思うと胸が詰まるように苦しくて、息もできないくらい切なくなる。
 ――この苦しくて切ない気持ちは、きっと愛そのものだ。
 彼のことを想うと涙が出てくる理由が、今はっきりとわかった。
 彼を愛しているから、逃げ出したいなんて気持ちより尽くしたいという気持ちが勝ったし、彼を悪く言う人がいたら、真っ先に庇うんだ。
 胸を張って、顎を引いて。
 きっぱりと強い口調で面と向かってお兄様に宣言する。
「わたしが、彼を愛しているからです」
 お兄様が深い息を吐く――それと同時に。
「ありがとう。ボクも君を愛しているよ」
 窓の方から、アインザッツ様の声が聞こえた。
「……ッ、アインザッツ!」
 お兄様が憎しみのこもった瞳でアインザッツ様を睨みつける。
「おっと、今日は別に何かを盗みにきたわけじゃないよ」
 手をひらひらとさせて、敵意が無いことを表すと、アインザッツ様はわたしに向かって歩いてきた。
「今までに盗んだ宝石は、すべて持つべき人の元へ返してきたよ」
 わたしの手をとって、彼はにっこりと笑いかけてくる。
「それでも盗んだ事実は消えない。お前には罪を償ってもらわないと」
「お兄様、やめて……やめてください!」
 必死になってアインザッツ様とお兄様の間に割り込む。
 でも、アインザッツ様はわたしの後ろから出てきてしまった。
「いいんだ、ハルカ。ボクは今日彼に捕まえてもらうためにここにきた」
 そして、今度はお兄様の方を向いて、淡々とした声で言う。
「罪を償えばいいんでしょう。ほら、早くボクを捕まえなよ」
 お兄様は、急に改心したアインザッツ様に驚いているのか、なかなかその場から動かなかった。
 数秒してから弾かれたように鞄から手錠を取り出し、アインザッツ様に近づく。
 不安そうにアインザッツ様とお兄様を見つめるわたしに、アインザッツ様はにっこりと微笑みかけて、わたしの髪を撫でた。
「必ず戻ってくるよ。もし拷問されたとしても、君の為に耐えてみせる。けど、いつ戻ってこられるかわからない。それでも君は、ボクを待っていてくれる?」
 そんなの、答えは決まっている。
「――はい。お待ちしております」
「じゃあ、約束」
 手錠をかけられる直前、まだ自由な方の手の小指が差し出され、わたしと彼は指切りをした。
「そうだ、最後に一つ、お願いがあるんだけど」
「なんでしょう?」
「次に会った時は、名前を呼び捨てにしてほしい」
 今までだって何度か名前で呼んだことはあったのに……とわたしは首を傾げた。
「アインザッツ……?」
「その名前じゃなくて、本当の名前の方だよ」
 彼はふふっと笑ってわたしの額ではなく唇にキスをした。
「――ボクが戻ってきたら、必ず教えるから」
 その言葉を最後に、彼の背中が遠ざかっていく。
 わたしは一瞬だけ、その背を追いかけようとしてしまった。
 けれど、どうにか走り出したい衝動を抑え――その場に膝から崩れ落ちた。
「アインザッツ様……」
 涙で頬が濡れていくのを感じる。溢れる涙を止めるように、両手で顔を覆った。
 一体彼がどれだけの期間、どうやって罪を償うのかは分からない。
 それは多分お兄様に聞いても、絶対に答えてはくれないだろう。
 不安が心に陰る度に、わたしは心の中で先ほどの約束を何度も唱えて、大丈夫だと自分に言い聞かせ――
 小指の温もりを閉じ込めるように、強く手を握った。


 ――愛おしい彼がお兄様に連れて行かれて、どれくらいの時間が経っただろう。
 最初は夜が訪れる度に彼の温もりを思い出して、いつになったら戻ってくるのだろうと指折り数えていた。
 季節が幾度もめぐってからも、彼は未だに戻ってこない。
 わたしは、アインザッツ様がいない寂しさを埋めるように以前よりも集中して音楽に取り組んでいた。
 ピアノ椅子に腰掛け、気持ちの赴くままに音色を奏でる。
 不思議なことに、彼の顔を、彼の声を、彼の温もりを思い出せば思い出すほど、自分の中から音楽が溢れて止まらなかった。
 ふとした時に、わたしはこんな日々をいつまで続けるのだろう――という不安に苛まれる。
 わたしの気持ちはまったく変わってない。
 むしろ、彼に早く逢いたいと想いは強くなる一方だ。
 でも、もしも彼が心変わりしていたら……と考えると、やはり不安でたまらない。
 今日もまた気持ちの赴くままにピアノを奏で、やがて曲は終盤に差し掛かっていく。
 そこで、どこからか聞き覚えのある歌声が聴こえた。
「……?」
 どこまでも透き通っていて、まるで天使のような歌声――
「この歌声は、もしかして」
 椅子が倒れそうになるくらい強い勢いで立ち上がり、窓辺に駆け寄る。
 慌てて窓を開け、半ば乗り出す形で窓枠に手をかけた。
 だけど、きょろきょろと辺りを見回しても、人の気配はなかった。
 先ほどの歌声は自分の幻聴だったのか、と深く息を吐いた時。
 同時に、木の後ろから人影が現れた。
「……っ」
「こんばんは、お嬢さん」
 月明かりに照らされたその微笑みに、全身が震えた。
 ……ああ、この笑い方も、声も、表情も何もかも、彼はあの頃と何一つ変わっていない。
 変わらないまま、帰ってきてくれた。
 嬉しさのあまり階段を駆け下りて、玄関から飛び出す。
 アインザッツ様は、玄関から飛び出てきたわたしを受け止めるように思いきり抱きしめてくれた。
「……ただいま、ハルカ」
 そう言って、彼の顔が近づいてくる。
 次の瞬間には、唇に柔い感触があたった。
 しばらく見つめ合ったまま、心地よい沈黙に身を任せる。
「あの……」
「ん?」
「……あなたの、本当の名前を教えて下さい」
「いいよ。ボクの本当の名前はね――」
 耳元に唇が触れてしまいそうなほど近づき、彼が自分の本当の名前を打ち明けてくれた。
 わたしはその名前を唇のなかで復唱し、何度も何度も彼の本当の名前を呼んだ。
「愛しています」
「ボクもだよ」
 ようやく再会できた喜びに、涙が溢れて止まらない。
 これでまた、愛しい彼と愛しい日々を過ごすことができる。
 過去を清算したから、まっさらな状態で共に音楽を奏でられる。
 それが嬉しくて、わたしと彼は月の下でいつまでも抱きしめあう。
 彼の腕の中、生涯を終えるまであなたと共にいたいと、わたしは夜空に浮かぶ月に強く祈った。