インスタント・ラブ
――人はあっという間に恋に落ちるのだと、その日痛いくらいに実感していた。
私立アルドノア学園には個性豊かな教師と生徒が集っている。
焼きそばパンを買い占める校長、転校してきたばかりの生徒を使いっ走りにするヤンキー、寡黙でマイペースな成績優秀者。
ともすれば変わり者だらけの学園で、理事長の娘であるアセイラム・ヴァース・アリューシアは本日も勉学に励んでいた。
授業の終了を告げるチャイムが鳴り、昼休みが訪れた。
「姫様、今日も購買部に行かれるのですか?」
「ええ、そうするつもりですよ」
廊下に二人分の足音が響く中、隣を歩くエデルリッゾに声をかけられ、アセイラムは首を縦に振った。
この学園には給食制度がないため、昼休みは自宅から弁当を持ち込んでいる生徒はそのまま教室で昼食を済ませるが、
それ以外の生徒は購買部まで行く必要がある。
アセイラムもその一人で、彼女はいつも購買部で昼食を購入していた。
(昨日買ったコロッケパンはスレインに渡してしまったし、今日も同じものを買おうかしら)
そんなことを考えながら歩いていると、後ろからパタパタという誰かが走る音がだんだん近づき、
アセイラム達の傍で止まった。
「あっ、あの! アセイラム姫」
自分の名前を呼ぶ声に振り向くと、話しかけてきたのは昨日知り合ったばかりのスレインだ。
走ってきたせいか肩で息をして少し苦しそうな彼の隣には、
なぜか学園内の定期試験で毎回上位をキープしている界塚伊奈帆までいる。
なぜこの二人が一緒にいるのか気になったが――アセイラムはやけに頬を染めた方の少年を見据え、柔く微笑んだ。
「あら、スレイン。どうかしましたか?」
「もしよければ、僕とお昼をっ――」
「アセイラム姫様に気安く話しかけないでって言ったでしょっ」
スレインが何かを言いかけた時、威嚇するような声でエデルリッゾが止めに入った。
アセイラムとスレインの間に割り入り、上目で彼を睨んではしっしっと手で追い払うような仕草をする。
「さっさとどいてよ、転校生!」
「え、でも――」
わめくエデルリッゾに対し、スレインは驚きながらも引かず、口を開こうとしては阻まれていた。
スレインと一緒にいる伊奈帆といえば、黙ったままエデルリッゾからアセイラムへ視線を移動させ、
じっと彼女を見つめている。
(私の顔に、何かついているのかしら?)
ぺたぺたと自分の顔を触ってみるが、ゴミがついている様子はない。
アセイラムは伊奈帆の視線に射抜かれて心が波立ちながらも、
さすがに時間の無駄になると思いエデルリッゾを止めようと声をかけた。
「エデルリッゾ」
「姫様は下がっていてくださいっ。大体、昨日姫様と知り合ったばかりなのに馴れ馴れしい!」
スレインにきゃんきゃんと小型犬のように吠えてかかるエデルリッゾに、
知らぬうちにため息が出そうになってしまう。
「もう、エデルリッゾったら…………」
このままでは埒が明かない。
本能的にそう感じ、もう一度エデルリッゾを止めようとした時。
それまで黙っていた伊奈帆が唐突に口を開いた。
「そこの、小さいかた。コウモリ……スレインは、アセイラム姫に話しかけてるんだ。
君は少し下がってくれないかな」
冷静で落ち着いた声に気をとられ、アセイラムはじっと伊奈帆を見た。
エデルリッゾはアセイラム関係のこととなると少々気性が荒くなるため、
アセイラムに声をかけようとしても彼女に阻まれて諦める生徒も多い。
そんな中で伊奈帆は至って冷静に、怯えずにエデルリッゾに真っ向から対抗したものだから、
アセイラムはどこか感動を覚えていた。
(この方は、お友達のために……?)
伊奈帆を見つめているうちに視線が絡み、目をそらせなくなる。
隣ではエデルリッゾとスレインが何やら言い争っているようだが、話の内容など耳に入ってこないほど、
まるでふたりきりの世界に入り込んだようだった。
スレインと騒いでいたエデルリッゾだが、見つめ合うアセイラムと伊奈帆に気づき一瞬ぐぬぬ、と言いたげな表情になり。
「ダメなものはダメっ!」
と、伊奈帆とスレインをまとめて追いやってしまった。
「さ、姫様。行きましょう!」
「え、ええ」
困惑しながらもエデルリッゾに手をひかれて購買部へ向かう一方で。
(界塚伊奈帆さん……一体、どんな方なんでしょう)
心の中では、食事に誘ってきたスレイン――の隣にいた、彼の視線が焼き付いて離れなかった。
◇
授業はとっくに終わり下校時刻が着々と近づく中、伊奈帆は学園の中庭に設置されたベンチに腰掛けていた。
彼の片手にはスマートフォンが握られており、その画面にはスーパーのセール情報が映し出されている。
(セールの時間に合わせるなら、あと十分後くらいに学校を出た方が良さそうだ)
両親のいない界塚家の家事はほとんど伊奈帆が担っている。
料理ももちろん例外ではなく、食材の買い出しとなればスーパーのセールにあわせて買いこみ、
できるだけ家計への負担を減らすように心掛けていた。
学園から自宅への帰り道にあるスーパーでは夕方にタイムセールが行われているので今日も向かうつもりだった。
ところが、タイムセールが始まるまでまだ時間がある。
いつもなら放課後は友人と過ごすのだが、今日はあいにく韻子は生徒会の仕事、
カームと起助は補習があり伊奈帆は必然的に一人になってしまった。
そこで夕飯の献立を考えて時間を潰すことにして、ゆっくり考え事ができるこの場所に来ていた。
ベンチに腰かけたまま目を閉じて、脳内に思い浮かべるのは自宅の冷蔵庫に入っている食材のことだ。
(卵はセールで買い足すとして、後は……)
夕飯の献立に意識を傾けていると、サクサクと地面を踏む静かな足音と共に一人の生徒が近づいてくる気配がした。
「あなたは……」
その生徒は通り過ぎずに伊奈帆に声をかけたため、自分に何か用でもあるのかとそちらを向くと――
降ってきたのは、穏やかで優しい声だった。
「界塚伊奈帆さん、ですよね」
顔を向けた先にいたのは、学園の理事長の娘であるアセイラムだ。
昼に声をかけた時にはお付きの少女がいたが、どうやら今は一人のようだ。
「どうも。……さっき一緒にいた人はいないんですね」
「ああ、エデルリッゾは今日お家の用事があるらしくて……」
「あなたはどうしてここに?」
「散歩をしていたら、あなたを見かけて」
柔らかく微笑む表情に会釈をしつつ、ふと不思議に思う。
「僕の名前を知っていたんですね」
クラスの違う伊奈帆とアセイラムの間に面識はなく、たまに廊下ですれ違うことはあっても直接話したことはなかったはずだ。
伊奈帆は一方的にアセイラムのことを知っていたが、彼女はどうして自分の名前を知っているのだろう。
「名前くらいは知っていますよ。学園の特待生ですし……。あ、隣に座ってもいいですか?」
アセイラムはこの学園の理事長の娘なので、父親と学園のことを話す時に伊奈帆の名前も話題に出たのかもしれない。
そう目星をつけつつ、「どうぞ」と少しだけ腰を浮かせて隣に座れるように間を開けた。
「私、界塚さんと話してみたかったんです。名前と顔だけは知っていましたが、どんな方なのか気になっていて」
「別に、たいした人間ではないですよ」
「網文さんと学年首席の座を奪い合っているとか」
「奪い合っているというと語弊がありますが」
学年主席の座を奪いあっているわけではなく、伊奈帆は学費の免除を目的に成績をキープしているだけだ。
幼なじみである韻子には負けず嫌いな部分があり、成績でも負けたくないと勝手にライバル認定されているのだが、
結果的にはそれが目立つ理由になっているらしい。
「私の父も界塚さんのことを誉めていましたよ」
興味津々にきらめいた瞳が伊奈帆を見る。
それはどうも、と返事をしつつ、普段友人達から呼び捨てにされている伊奈帆は名字を呼ばれることがどうもしっくりせず、
隣にいる彼女を見て、
「伊奈帆でいいですよ」
と言うと、快く了承の返事があった。
「では、私のことはセラムとお呼びください」
彼女のフルネームは「アセイラム・ヴァース・アリューシア」だったはずだが、なぜセラムなのか、と首を傾げる。
そんな伊奈帆の疑問を感じ取ったのか、アセイラムは付け足すように笑んだ。
「愛称のようなものです」
「……わかりました、セラムさん」
「ところで、伊奈帆さんは何をしてるんですか?」
「夕飯の献立を考えていました」
素直にそう答えると、意外そうな顔をされた。
「伊奈帆さんがお料理をされるんですか」
「はい」
「すごいですね!」
「別に、たいしたことじゃありません。生きていく為に必要なことですから」
伊奈帆はごく当たり前なことを言ったまでだが、その返答にアセイラムは一瞬ぽかんとした表情を浮かべた。
しかしその顔にはすぐに笑みが広がる。
「ふふ、確かにそうですね」
何かがツボに入ってしまったようで、彼女はくすくすと上品に笑っている。
おかしなことでも言ったかと考えた瞬間、ぐううっと空腹の音が聞こえてきて、伊奈帆は耳を疑った。
隣を見ればアセイラムは恥ずかしそうにおなかを押さえている。今の音は彼女から出たのだろうか。
「す、すみません。お恥ずかしい……!」
(お腹が空いているのか)
スマートフォンの画面を確認するともうタイムセールの始まる時間になっていた。
アセイラムと話しているうちにだいぶ時間がたってしまったようだ。
今の時間、購買部はすでに閉まっている。
彼女の空腹を満たすには学園を出るのが一番早いと考えた末、伊奈帆はえへへ、と照れたように笑うアセイラムに声をかけた。
「セラムさんさえよければ――うちに何か食べにきますか?」
「えっ、いいのですか?」
「簡単なものしか作れませんが、それでもよかったら」
アセイラムは少し悩んだように顎に手を当てたが、すぐに了承した。
本当は学園外のコンビニで適当に買い食いでもすれば自宅まできてもらう必要は無かったのだが、
伊奈帆はアセイラムとすぐに別れるのを惜しんでしまった。
もう少し一緒にいて話したいという気持ちが胸の奥に生まれた結果、伊奈帆にしては珍しい誘いになったのだ。
◇
スーパーへ寄り目当てのものを無事入手し、伊奈帆は自宅の鍵を開けた。
「お邪魔します」
「どうぞ」
玄関に学園指定のローファーが二つならぶ光景は、この家に越してきてから初めてのことだった。
姉のユキがこの場にいれば「女の子を部屋に連れ込むなんて……!」と驚くかもしれない。
何しろ伊奈帆はこれまで自宅に女子を連れてきたことがないし、彼自身も女子の部屋に上がり込んだことはない。
韻子の家にはたまに夕食を食べにいくが、いつもユキが一緒だったので特別な何かがあるわけでもなく。
勢いで誘ってしまったものの、思春期の少年の家に一人で上がり込むなんて彼女には危機感が無いのだろうか、
と他人事ながら思ってしまう。
アセイラムの存在は起助との会話の中で知ったが、最初の印象は深窓の令嬢といったところだ。
ところが実際に話してみれば茶目っ気な部分もあり、その上口数が少ない伊奈帆と話していても退屈そうにするそぶりもない。
(本当に、不思議な人だ)
手っ取り早く作れる料理にしようと考えつつ手を動かし、買い足したばかりの卵を使ってオムライスを作ることにした。
アセイラムには座って待っているように言うと、彼女はにこにこしながら椅子に座り伊奈帆が料理する姿を眺めていた。
出来立てでふわふわのオムライスが乗った皿をアセイラムの前に置くと、彼女は目を輝かせてスプーンを手に取った。
「ありがとうございます、いただきますっ」
「口にあうかはわかりませんが」
何せ片や庶民、片やお嬢様だ。
普段食べている料理の種類も違ってくるだろうし、味付けだって一流の料理には敵わない。
食べられないものを作ったつもりはない。それでも初めて食べてもらう瞬間は少しだけ緊張する。
ところが、その心配は杞憂だったようだ。
アセイラムがオムライスを口に運び、うっとりとした表情を浮かべたからだ。
「おいしい……」
「それはよかった」
伊奈帆はエプロンをはずしてからアセイラムの前に座り、おいしそうに食事する姿を眺めた。
彼女はかなりお腹を空かせていたようで、オムライスはあっという間になくなった。
そしてごちそうさまでした、と両手を合わせてから伊奈帆に向かって微笑んだ。
にこにこした顔で見つめられて、思わずたじろぐ。
「僕の顔に何かついていますか」
「いいえ。……誰かと一緒に食べるご飯は、こんなにもおいしいんだなと思って」
アセイラムは微笑を浮かべたまま机にひじをついて顎を乗せていたが、ふと浮かべたどこか寂しさの陰る表情に違和感を覚える。
廊下ですれ違うときでさえ常にほほ笑みを浮かべていた彼女にしては珍しい顔だと、声には出さないが意外に思った。
「家では一人で食べているんですか」
「ええ。両親は何かと忙しいので……」
そういったきり、アセイラムはうつむいた。少し間をおいて、ふたたび口を開く。
「コックさんが作ってくださる食事がおいしくないというわけではありません。ですが、やはり一人で食事をすると寂しくて」
伊奈帆はもう身内がユキしかいないため一人で食事をするのにも慣れているが、
両親が健在にも関わらず、同じ家に住んでいるのに一緒にご飯を食べられないというのは一体どんな気持ちなんだろう。
いつも笑顔の彼女が珍しく暗い顔をしているからだろうか、伊奈帆の中で彼女を放っておけないという気持ちがくすぶり始める。
その上、また自分の作った料理を笑顔で食べる姿を見たいと思ってしまった。
「セラムさんさえよければ、また食べに来てください」
空っぽになったお皿を下げながら伊奈帆がそう言うと、アセイラムは驚いたように目を見開いた。
「……よろしいのですか?」
「はい」
うなずくと、今度はふわっと花が綻ぶように破顔した。
「とても嬉しいです――ありがとうございますっ」
嬉しそうに笑う顔を見た途端、ドキドキとうるさいくらいに鼓動が速まった。
なるべく平静を保つように表情を変えないまま、自分の胸元のシャツをくしゃりと掴む。
「……セラムさん」
名前を呼びかけた時、外から聞き慣れた音がした。
一拍遅れてそれが午後五時を告げる鐘の音だと理解すると、アセイラムは壁にかけられた時計を確認して立ち上がった。
「あら、もうこんな時間なんですね。そろそろ帰らないと……あっ、使った食器を片付けさせてください」
「後でまとめてやるので結構です。外まで送りますよ」
「そうですか……? すみません、ありがとうございます。このお礼はまた後日改めてさせていただきます」
何度もお礼を言う彼女に「気にしないでください」と首を振り、伊奈帆はアセイラムと共に外へと出た。
日が沈みかけた道路に二人の影が並び、少し伸びた影を眺めていると、隣にいるアセイラムが口を開く気配がした。
「そういえば、伊奈帆さんはいつスレインとお友達になったのですか?」
「僕のいるクラスにコウモリが転校してきて……」
伊奈帆はそこまで言いかけ、はたと口を閉ざした。
自分のクラスに転校してきただけで、スレインと友達になった覚えはない。
否定するように首を横に振ると、アセイラムは不思議そうに頭をかしげた。
「僕とあいつは友達ではないですよ」
「でも、今日のお昼、一緒にいらっしゃいましたよね?」
「あれは……」
落ち込むスレインを慰めるつもりで「アセイラム姫をお昼に誘えばいい」と言ったが
――そういえば昨日の自分は、どうしてスレインに僕も一緒について行くなどと言ったのだろう?
本来なら彼が勝手に誘えばいいはずだが、すかさず自分もついていくと付け足してしまった。
一体どうして、と考えて、思い至ったのは自分がスレインに嫉妬したのではないかという結論だ。
転校してきたばかりのぽっと出の奴なのに抜け駆けは許さない、とでもいったところだろうか。
気づかないうちに自分の中に生まれていた嫉妬心に驚きつつ、なんとなく、そんな予感はあった気がする。
「一つ、訊いてもいいですか」
「はい、なんでしょう?」
「今、お付き合いしている男性は」
「いませんが……」
それが何か? とアセイラムが首を傾げると同時に、伊奈帆は歩みを止めた。
例えば、廊下ですれ違った時。
起助からアセイラムの話を聴いた時。
知り合ったばかりの少年にも優しく手を差し伸べることを知った時。
大人しい令嬢かと思いきや茶目っ気があったり寂しがりやだったりと、意外な一面を見た時。
些細なきっかけが降り積もって、今日の出来事によって、それは伊奈帆の心に明確に芽生えた。
「唐突なことを言いますが」
もっと彼女のことを知りたい。欲を言えば、自分の作った料理を美味しそうに食べる姿をもっと見たい。
そう思ってしまうくらい、この人が好きだ、と。
「どうやら僕は、あなたを好きになってしまったみたいだ」
◇
『あなたを好きになってしまったみたいだ』
それは、一体どういう意味での好きなんだろう――と、アセイラムは一晩眠れない頭で考えていた。
何せ伊奈帆とアセイラムがきちんと会話をしたのは昨日が初めてだ。
彼はいつ、どうして自分を好きになったのだろう?
昨日から色々なことが起こりすぎて頭の整理が追いつかない。
まさか知り合ったばかりの少年の家に上がりこむなんて朝起きた時には思いもしなかったし、
その少年に告白されるなんて想像もしていなかった。
「ううん……」
あの好きにはどういった意味が含まれているのか、アセイラムには正確な判断ができなかった。
もしかしたら友達としての好きなのかもしれないが、異性としての好きだとしたら、自分はどう答えればいいのだろう。
放課後、ぼんやりとした思考のまま廊下を歩いていると、今まさに考えていた人とばったり出くわしてしまい、
アセイラムは足を止めた。
「伊奈帆さん……こんにちは」
「こんにちは、セラムさん」
挨拶をしたきりお互いに黙ってしまい、何とかして会話を繋げなければ……と絞り出した言葉はやはり昨日の事についてだった。
「き、昨日はありがとうございました」
「いえ……」
お辞儀をしてから顔を上げると、伊奈帆が何か言いたそうにこちらを見ていた。
「どうかしましたか?」
「あなたの反応を見て、自分は本当に告白をしてしまったんだな、と実感していたところです。顔が真っ赤ですよ」
慌てて自分の頬に手を当ててみると、確かに平熱以上の温かさを感じた。
熱くなった頬を隠すようにうつむき、ふと伊奈帆の手元に視線が向かう。
「料理の、本?」
彼の手には数冊の本が握られていて、その中には料理本が混ざっていた。
男子高校生にはおよそ似つかわしくない本だが、そういえば料理は自分ですると言っていたなと思い出し、
胸の奥がじんわりと温かくなる。
(伊奈帆さんらしい)
ふふ、と小さく笑みを零していると、
「これから図書室に返しにいくところなんです。……一緒に来ますか?」
アセイラムの視線に気づいた伊奈帆は、思い立ったようにそう言ったのだった。
図書室には珍しく人がいなかった。
いつもいるはずの図書委員や司書も不在のようで、水を打ったように室内は静まり返っている。
おそらく用事があって皆留守にしているのだろうが、今の状況はアセイラムにとって少し緊張するものだ。
何せ自分に告白してきた男子と二人きりなのだ。
ただでさえ一方的に気まずい雰囲気だったのに、何故ついてきてしまったのか……と後悔してももう遅いが、
もう少し彼と話してみたかったのは事実で。
どのタイミングで話を切り出そうか、アセイラムが悩む傍ら、伊奈帆はといえばテキパキと本の返却手続きをして
新しく借りる本を選別していた。
「伊奈帆さんはよく図書室に来るんですか?」
たずねてみると彼は視線は本棚に向けたまま「そうですね」と頷いた。
「図書室にはたくさんの情報がありますから」
以前司書から図書室を利用する生徒は年々減っていると耳にしたことがあったが、伊奈帆は違うらしい。
頭の回転の速さといい、マイペースさといい、つくづく他の生徒とは異なる存在に興味がわいてしまう。
図書室に備え付けられた椅子に腰掛け、伊奈帆を見つめていると、不意に視線が絡んだ。
「……昨日も思いましたが、セラムさんは本当に無防備な人だ」
伊奈帆は深く息を吐き、アセイラムの真正面にある椅子に座った。
静かな図書室の中、彼が動く音だけがやけに大きく響く。
「告白してきた男にあっさりついてきて、もし僕が乱暴な奴だったらどうするんですか」
言外に無理やり襲われたらどうするという意味が含まれているのだろう。
「自分の身は自分で守れますから。……それに、聞きたいこともありましたし」
「聞きたいこと?」
自分の身は自分で守れるよう育てられたため腕っ節には自信があるし、何より一つ尋ねたいことがあったからついてきた。
伊奈帆の真摯な眼差しに射抜かれて飛び跳ねる心臓をなだめつつ、アセイラムは気がかりだったことを口にした。
「伊奈帆さんは、いつから私のことを……?」
告白をされてもすぐに返事ができなかったのは、本当に彼が自分を好きなのか疑問に思ってしまったからだ。
彼の性格を考えればからかわれている可能性は無いとは思うが、
出会って間もないのに相手を好きになることなどあるのだろうか、という問いをまっすぐにぶつける。
すると彼は、考えこむように目を伏せた後、アセイラムの目を見つめた。
「前々から気になってはいましたが、はっきり好きだと自覚したのは、昨日です」
「昨日」
思わず復唱してしまったが、伊奈帆は至って真面目な顔をしている。
どうやら冗談を言っているわけではないらしいが、本当に? と怪訝な顔になってしまったのだろう。
「おかしなことではないです」
そこで一度、彼は言葉を区切り。
「元々綺麗な人だとは思ってましたが、昨日ゆっくり話して、あなたのことをもっと知りたいと願ってしまった」
それは恋ではありませんか。との言葉が続き、アセイラムは悶々としていた思考が晴れていくのを感じた。
廊下ですれ違ったことはあれど、お互いの存在をきちんと認識したのは昨日が初めて。
だが話すうちに興味を惹かれ、もっと相手のことを知りたいと思ったのはアセイラムも一緒だった。
一気に進展した仲に戸惑いつつも――自分の中にも恋心が芽生え始めていることに、今この瞬間、気づいてしまった。
「僕のことは、嫌いですか」
まだ自分の中で消化しきれない感情はあるが、彼と一緒にいる時間は心地良いし、それに。
「いいえ。むしろ私も、伊奈帆さんのことをもっと知りたいです」
「では、僕と付き合ってください」
「……私でよければ、よろしくお願いします」
「セラムさんがいいんです。あなたが望むなら、毎日お弁当だって作って持ってきます」
「それはとても魅力的ですね!」
昨日の一件ですっかり胃を掴まれてしまったアセイラムからすればとっておきの殺し文句に、
顔を輝かせてそう返事をすると、伊奈帆が浮かべたのは優しい微笑みだった。
初めて見るその表情のおかげで、アセイラムは確実に恋に落ちたのだが、それを自覚するのはもう少し後のことになる。
◇
伊奈帆とアセイラムが転がり落ちるように恋をしあってから早数ヶ月。
彼の姉のユキやいつもアセイラムに付き添っているエデルリッゾがいない放課後に逢瀬を重ねることが、
最近になってようやく増えてきた。
逢瀬の場所は決まって伊奈帆の自宅であり、二人だけで夕飯を食べた後はアセイラムが帰宅する時間まで寄り添って過ごす。
同世代の人たちがするようなきらびやかなデートなどはしたことがないが、穏やかに過ぎていくこの時間を、
伊奈帆もアセイラムも好ましく感じていた。
そうして今日も変わらず夕食を楽しんだ後、伊奈帆とアセイラムはベッドの上に腰掛け寄り添っていた。
恋人同士が密室の、しかもベッドの上にいるとなれば、することは一つしかない。
最初は手と手を絡ませて話すだけだったが、沈黙の訪れたタイミングで柔らかい唇が合わさる。
「んっ……」
最初は触れるだけの優しいキスだったが、伊奈帆はアセイラムの唇の感触を楽しむように何度か啄むと、
今度は舌を割り入れた。
歯列をねぶられて息が上がり始め、ぎゅっと伊奈帆のシャツを握りしめる。
伊奈帆は唇を重ねたままアセイラムを押し倒すと、彼女の制服のボタンに手をかけ、一つ一つ丁寧に外した。
そして白い顎から鎖骨まで順番に唇を降ろしていくと、胸の谷間に顔をうめ、ほんのりと汗ばんだ肌に舌を這わせる。
くすぐったさに身悶えていたアセイラムは、そこで一度ハッとした表情になり伊奈帆の肩を押した。
「あのっ、伊奈帆さん……」
「何ですか」
「私、今日汗をかいてしまったので……」
シャワーを浴びてからの方が、と言いかけた唇は再び伊奈帆に塞がれる。
「汗臭くないので平気ですよ」
伊奈帆は表情を変えないまま、くんくんと香りを確認するように鼻を動かした。
「いい匂いがする」
「で、でも」
女心としてはそれでもシャワーを浴びたいものだったがそれ以上は何も言えず、結局伊奈帆に身を委ねた。
彼の手は胸の方へ伸びていき、ふにふにと感触を楽しむような手つきでそこを下着越しに揉まれ、
もどかしさに体の奥が疼き出す。
刺激を与えられてツンと上を向いた胸の頂を、下着を外してから軽く噛まれて、アセイラムは背をしならせた。
「……っふ、ぁ……あっ」
赤く色づき始めた胸の先を唇でしごかれ身悶えていると、太ももまで手のひらで撫で回され、ぴくぴくと体が反応してしまう。
内ももを這っていた手が脚の間にある割れ目を確認するように移動し、中心の辺りをそっと押されて息を呑んだ。
「っ……」
「もう湿ってる」
指先で触れられたそこは既にしっとり湿りを帯びていて、これから起こる事を期待しているのかひくりと震えた。
ショーツを脱がされ両脚を一気に持ち上げられ、決して人には見せられない部分をまじまじと見つめられれば、
口の端からささやかな吐息が漏れる。
10cmほど身長差があるため、あまり見たことのない彼のつむじが見える新鮮な感覚に一瞬和みそうになったが、
自分の置かれている状況を自覚すると羞恥心が勝った。
「い、伊奈帆さんは、脱がないのですか」
「脱いだ方がいいですか?」
問いかけを問いかけで返され、こくりと小さく頷く。
自分だけが肌を晒しているのがひどく恥ずかしいから、せめて伊奈帆も同じ状態になって欲しかった。
そうすれば少しは恥ずかしさも軽減されると思ったのだが――
アセイラムに覆いかぶさっていた体を起こし、伊奈帆は一度膝をつく体勢になり自らのネクタイに手をかけた。
しゅるりと小気味よい音と共にネクタイを抜くと、そつのない動作でシャツのボタンを外していく。
あっという間にアセイラムと同じく生まれたままの姿になった伊奈帆は、何とも思っていないような顔で彼女を見た。
「これでいいですか」
「は、はい」
いざ彼の裸体が晒されると、営んでいる行為を強く意識させられて余計に恥ずかしくなってしまう。
頬を真っ赤にしてふいっと顔をそらしたアセイラムに、伊奈帆は小さく苦笑いを浮かべ、再び彼女の脚の付け根に顔を近づけた。
しっとりと濡れた秘所に舌を忍ばせ、割れ目をなぞるように滲み出た愛液を舐め取る。
「ん、……ふ、ぁ……っ!」
優しい愛撫のせいで意識せずとも漏れる声に気づき、アセイラムは手のひらで口を覆ったが、
固く尖らせた舌の先で敏感な箇所をつつかれ、より大きな嬌声が喉から出た。
「声、抑えないで」
「や……っん……!」
「僕しか聞いていないので大丈夫ですよ」
伊奈帆が声を出す度に吐息が秘芽に触れ、無意識のうちに腰を引こうとすると、彼の両手に掴まれて身動きが取れなくなる。
そのままねっとりと肉芽をしゃぶられ、声を抑えたくとも抑えられない。
「っそんな、こと……言われても……っ、は、はずかしいです……あッ!」
言葉を途切れ途切れに発しつつ、潤んだ瞳で伊奈帆を見下ろす。
恥ずかしさのあまり目尻にはうっすらと涙が浮かび、瞬きをした際に一筋の涙が頬を伝った。
それを見逃さなかった伊奈帆は、脚の間から顔を上げ、上目遣いで「すみません」と謝りながらあやすように
アセイラムの頭を撫でたのだが――次の瞬間には「……もっと、泣かせたいな」とこの場には不似合いな言葉を呟いた。
「え……っ」
「いえ、泣いている顔というのも新鮮だな、と」
一瞬何を言われているのか分からず、アセイラムは浅い呼吸を繰り返しながら伊奈帆の顔を見つめた。
泣かせたい、などと言われたのは彼女にとって初めてのことだった。
泣き顔なんて見て何が楽しいのだろうと思ったが、追求する前にふっと微笑まれ、なにも言えなくなる。
「でも一番好きなのは……笑顔ですから」
言われ慣れない甘い言葉の数々に戸惑い視線を彷徨わせていると、伊奈帆はアセイラムの額に唇を押し当てた。
額に感じる温かさに気を取られた隙に、伊奈帆の指が蜜口にするりと滑り込み、熱くうねる中をかき混ぜていく。
「ん……あっ……」
指を出し入れするたびに響く耳をふさぎたくなるほど淫猥な水音は徐々に大きくなり、
中に入っている指が動くほど蜜が溢れ出した。
「そろそろ、かな」
体内を動き回る異物感にぎゅっと目を閉じていると、深く息を吐く気配がして、ベルトを外す硬質な音が聞こえた。
こわごわと目を開けた時に視界にうつった熱の塊に思わず息を呑む。
これまでも両手で数えられるくらいには伊奈帆と体を繋いでいたが、実物を見たことはなく。
ぬらぬらと怪しく光るそれに後ずさり、アセイラムは怯えたように首を振った。
「そ、そんなに大きいの、入りません」
「この前も入ったし、今日もたくさん濡らしたから大丈夫。……ほら、こんなにぐしょぐしょになってる」
伊奈帆が濡れそぼった場所に指を何本かまとめて挿れると、言葉の通りになっていることが
自分でも分かるくらい蜜が滴り落ちていた。
蜜口に熱いものが当てられ、焦らすように表面を滑り、やがてそそり立つ熱は媚肉を掻き分けて体の奥へ入っていく。
「っ、あ……あっ、ん……!」
怒張した伊奈帆の熱に圧迫され、お腹が苦しい。
圧迫感から逃れるように身体をよじるついでに、つい伊奈帆の肩をぐっと掴んでしまった。
「……ッ、セラムさん」
「……あっ、すみません……っ!」
爪が肌に食い込む感触に気づき慌てて手を離そうとして、その手首が伊奈帆に捕らわれる。
力を入れればすぐに折れてしまいそうなほどに細い手首は、伊奈帆の手によって彼の口元へ運ばれ、指先に唇が触れた。
「い、なほさん……?」
「掴まっていてください」
熱を孕んだ瞳に見つめられて戸惑っていると、口づけられた指先は再び伊奈帆の肩へ戻され、元通りの場所に落ち着いた。
今度は爪を立ててしまわないように気をつけたが、ゆっくりとスピードを増していく律動に理性が溶かされてしまう。
どこかへ飛んでいってしまいそうな慣れない感覚に下唇を噛み締めていると、伊奈帆の舌が口内に入り込んできた。
「んっ……ふ……ぁっ」
肌と肌がぶつかって卑猥な音が鳴り響き、恥ずかしくてたまらないのに、
敏感な箇所を散々刺激されながらのキスに体中が震えそうになる。
(気持ち、いい)
挿れた直後は膨張した熱が出し入れされるだけでお腹の辺りが苦しかったが、不思議なことに体は順応していくらしい。
苦しそうな表情をすれば秘芽をこすられ、その刺激に気を取られているうちに痛みが和らぎ、やがて全身に快楽の波が広がる。
まるで身体を繋がる回数が増える度に伊奈帆に作り替えられていくようだった。
やがてゆっくりと訪れ始めた快感に思考がさらわれ、なすがままに揺さぶられて、アセイラムは喉を仰け反らせた。
体全部で伊奈帆を受け入れるようにしがみついてびくびくと四肢を揺らし、恍惚とした表情で彼を見上げる。
媚肉で強く締め付けたおかげで彼も達したのか、伊奈帆は苦しそうに目をつむり眉をひそめていた。
その表情を見たら不意に胸が苦しくなって、アセイラムは抱きつくように伊奈帆の首の後ろに手を回し、彼と唇を重ねた――
◇
「セラムさん」
幸せに浸ったまま目をつむっていたらいつの間にか眠ってしまったようで、
自分の名前を呼ぶ声に反応してうっすらと意識が戻ってくる。
「伊奈帆さん……。……っ、す、すみません!」
ぼんやりと傍にある温もりに体を預けかけた時、頭の下に敷いているものが枕ではないことに気づき、勢い良く飛び起きた。
眠っている間、伊奈帆の腕を枕代わりにしていたみたいだ。
「ごめんなさい、重かったですよね……!」
「いえ、大丈夫です」
さらりと謝罪を流されたと思いきや、伊奈帆は壁にかけられた時計に目をやり横たわっていた体を起こした。
「それよりそろそろ時間だ」
アセイラムもつられて時計を見ると確かにもうすぐ帰らなければいけない時間だった。
外泊の許可が下りていれば話は別だが、このままでは家族に心配をかけてしまうだろう。
名残惜しくもベッドから抜けだして帰り支度をしようとすると、背後から伊奈帆の腕が伸び、
アセイラムの細い体が抱きとめられた。
「もっと一緒にいたいと思ってもいいですか」
「はい……私も、同じ気持ちです。今度はちゃんと外泊の許可を貰ってきますね」
「そうしてください」
頷くのと同じタイミングで耳にキスを落とされ、アセイラムはくすぐったそうに肩をすくめる。
背後にいる伊奈帆の方へ振り向くと、今度は唇に直接柔らかい感触がおとずれた。
「んっ……」
お互いの体温を確かめるように幾度か唇をくっつけた後、ふわりと笑うと、もう一度ぎゅっと抱きよせられた。
その腕の強さはまるで離したくないと言っているようで、アセイラムはそれに返事をするように伊奈帆の手を握った。
普通の恋人同士のように長い時間を経てつき合ったわけではないが、会うたびに好きなところを見つけてもっと好きになる。
お互いの今までを知らなかった分、これからゆっくりと知っていけばいい。
そんな形の恋があってもいいと思えたのは、きっと伊奈帆が相手だからだろう。
伊奈帆と触れ合って愛おしさを感じる度、アセイラムはより深い愛に落ちていくのだった。