Miracle World

プロローグ

 お昼の十二時を過ぎ、温かな日差しが部屋に差し込む頃。
「今日も図書館へ行くのかい?」
 出掛ける支度をしていたら、複雑そうな表情をしたお兄様が声をかけてきた。
「はい」
 頷いて、いってきますと言ってから図書館へと向かう。

 わたしはここのところ、よく図書館へ行っていた。
 というのも、すべては舞踏会の夜に出会った彼の手がかりをつかむためだ。

 宝石専門の怪盗、アインザッツ様。
 彼の歌声が、未だにわたしの耳から離れてくれないから、あの夜の事は忘れようにも忘れられなかった。
 何とかしてもう一度彼に会ってみたい。
 そんな思いからわたしは図書館へ赴いて、過去の新聞や普段読まないような新聞も隅々までチェックしていた。
 そして怪盗関連の記事があれば一字も逃さずに読む。それが、この頃のわたしの日常になりつつあった。
 何が彼の手がかりになるかわからない以上、こうして地道に情報を集めるしかない。
 でも、最近アインザッツ様は表立った行動を起こしていないらしく。
 今日もまた、めぼしい情報は掴めなかった。

「はぁ……」
 意図せずため息が出る。
 アインザッツ様の情報を集めだしてから既に三週間ほど経っていた。
 早く彼を見つけないと、どこか他の国へ逃げてしまうかもしれない。
 そんな焦りだけが先走って、ここ数日は夜もぐっすり眠れていなかった。
 大きなあくびを噛み殺し、図書館を出る。
 空は焦りで曇る心とは裏腹に爽快なほど晴れ渡っていて、二度目のため息が出てしまう。
 石畳の上を歩きながら、これからどうしようと頭を悩ませた時、ふとある事を思い出した。
「そういえば、お母様におつかいを頼まれてたんでした」
 朝、出掛けるなら帰りに買い物をしてきてほしいとお母様にメモを渡されていた。
 折りたたんでしまっていたメモを取り出し、軽く目を通す。
 わたしはそれを片手に、市場へ向かった。

 腕の中にある紙袋が歩く度にガサガサと音を立てる。
 お母様に頼まれたお使いのメモにはたくさんの果物が羅列されていて、すべてを買ったら片手では持てないほどの量になってしまった。
 紙袋の重さになんとか耐えながら一歩ずつ帰り道を歩いていると、前方に人影が複数集まっているのが見えた。
 華やかなドレスで着飾り、レースがふんだんに使われた日傘を差している女性が密集して、会話に花を咲かせている。
 どうやら、自分よりいくらか年上の女性達が井戸端会議をしているみたいだ。
(あれ? あの人達は、確か……)
 名前こそ知らないが、見覚えのあるその姿。
 記憶を掘り起こして、彼女達との繋がりを思い出す。
 ……確か、舞踏会の夜にお兄様と話していた淑女達だ。
 あの時は仮面をつけていたから顔は分からなかったけれど、髪の色や背丈に覚えがある。
 彼女達はよほど盛り上がって話しているのか、一歩近づくごとに会話の内容が鮮明に聞こえてきた。
「レイジー様ったら、相変わらず独り身でいらっしゃるのね。あの方なら色んな方から声がかかっていそうなのに」
「噂で聞きましたけど、確か妹さんにべったりなんですって?」
「あら……じゃあ、妹さんがお嫁に行くまで面倒を見るつもりなのかしら」
 素知らぬ顔をして横を通りすぎようとしたけど、どうやら彼女達はお兄様のことを話の種にしているみたいだ。
 盗み聞きはよくない……と思いながらも会話の内容が気になって、わたしは歩くスピードを遅めた。
「まさか! そんなことしていたら行き遅れてしまいますよ」
「でも、特定の方と付き合わないのは妹さんがいらっしゃるからって聞いたことがあるわ」
 思わず、そんな噂があるんですかと足を止めそうになる。
 わたしがいるからお兄様が恋人を作らないって、一体どういう意味なんでしょうか。
 生まれてこの方、わたしが男性とお付き合いしたことがないから、遠慮してるとか……?
 ぐるぐる思考が巡る中、彼女達は別の話題に興味が移ったようだ。
「そういえば、聞きました? あの宝石の話」
「ええ、洋館のお話ですよね」
 わたし達兄妹じゃなくて、他の話題が出たことに内心安堵し、わたしは彼女達の横を通り過ぎた。
(それにしても、さっきの噂は本当なのかな)
 確かに、これまでお兄様が誰か一人の女性をお父様達に紹介しているのは見たことがない。
 休日も用事がないと、できる限りわたしの傍で一緒にお話をしてくれていて……改めて考えてみれば、不思議だ。
 お兄様のように素敵な人なら、恋人がいたっておかしくないのに、噂では「わたしがいるから恋人を作らない」とまで言われている。
 それは、どうしてだろう。
 いつまでも恋人ができないわたしのことを放っておけないから? それとも何か、別の理由があるのかな。
 そんな考え事をしながら歩いていたら、前から歩いてきた人と肩がぶつかった。
「あっ」
 ぶつかった拍子に紙袋に詰めていた果物がドサドサと音を立てて落ちる。
 慌ててかき集めようとするけれど、果物の一つが転がっていってしまい、わたしは慌てて追いかけようとした。
「ああああ……」
「おっと」
 でも、ぶつかった男の子がそれを追いかけて拾い、わたしに手渡してくれる。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして」
 果物を紙袋に戻してからお辞儀をして、そこで初めて男の子の姿をまじまじと見つめる。
 質素なシャツにサスペンダーを着用して、長い脚はチェック柄のパンツに包まれている。
 キャスケット帽を目深に被っている上、逆光のおかげで顔がよく見えなかったけれど、とても綺麗な瞳に気づいた時には心臓が飛び跳ねた。
「あれ、君……」
 男の子はわたしの顔を見つめて、意外そうな表情を浮かべている。
 ……わたしの顔に、何か付いているのかな?
 そう思って顔へ手を当ててみるけど、彼はそれ以上特に何も言わない。
「あの……わたしの顔、何か付いてますか?」
「え? いや、別に何もついてないよ」
 たった一言二言会話しただけなのに、なぜだかふとした違和感が生じる。
 まるで昔の知り合いに遭遇した時のような……。
 改めて男の子の顔を見る。どれだけ記憶をさかのぼっても、やっぱりこの人の顔は見たことがない。
(……違う。顔じゃなくて、この人の声を知ってるんだ)  この声――厳密に言えば、似ている声をどこかで聞いた気がするけれど、どうも思い出せない。
 でも、もっと高くて澄んだ声を、絶対に聞いたことがあるはず……。
 靄がかった頭に手をあて、彼に問いかける。
「あの、もしかして、どこかでお会いしたことがありますか?」
「……ううん、そんなはずはないよ。ボクは今日初めてこの街に来たから」
「そうですか……」
 初めてこの街に来たのなら、これまでに会ったことはないだろう。
 なのになぜか、心の奥底がざわついている。
 わたしはこの人を知っているはずだ、と。
 もう少し話しかけてみようと口を開きかけたとき、夕刻を告げる鐘の音が鳴り響いた。
「あ……わたし、もう帰らないと」
 心のざわつきの原因を探りたかったけれど、今はお母様のお使いを済ませないといけない。
 しこりを残したまま、男の子にもう一度お辞儀をして、わたしは家へ帰った。


 そして、その晩。
 わたしはお兄様から、衝撃的な一言を聞いた。
「アインザッツ様を、おびき寄せる……?」
 お兄様は得意げに胸を張り、人差し指を立てて器用にウインクをした。
「うん。ぼくの人脈を使って、何日か前から『街の外れにある古びた洋館に、数々の宝石が眠っている』って噂を流していたんだ」
 聞くところによると、その洋館は昔は貴族が住んでいたけれど、ある日急に人がいなくなってからは誰も手を付けずにいるらしい。
「今、その洋館は一般の人を寄せ付けないように警察の権限を使って立ち入りを禁じている」
 真面目な表情でわたしを見据えて、お兄様は言葉を続ける。
「そこにぼくと、ぼくの仲間だけで乗り込んでアインザッツを待ち構えて捕まえるって作戦!」
 そこまで一息で言って、くるりと回ってガッツポーズをひとつ。
「洋館は朽ち始めているから、ちょっと危ないんだけどね。一歩踏み出すごとに床がミシミシ鳴ってたし。それに今回の作戦が失敗したら、ぼく仕事辞めさせられちゃうかも~」
 冗談めかして言っているけど、警察の権限を使った上で作戦がうまくいかなかったら、それも充分有り得る話だ。
 おそらくお兄様は、確実にアインザッツ様をおびき寄せられると思っているんだろう。
 それなら、わたしも行かなければならない。
「……わたしも」
 なんとかして声を絞りだす。
 お兄様の仕事場へ連れて行ってなんて言うのは、初めてだからすごく緊張する。
「え?」
「わたしも連れて行ってください」
 お兄様は一瞬きょとんとした顔をして、首を横に振った。
「それはできないよ」
「どうしてですか?」
 お兄様の服の裾をつかんで、食い下がる。
 今日までアインザッツ様の情報を集めてきたけれど、何一つ手がかりは見つからなかった。
 でも、そこに行けば遭遇できる可能性があるのなら、わたしはそこで彼に会わなきゃいけない。
「どうしてって……君を危険な目に合わせるわけには」
 わたしの勢いに押されたのか、お兄様は視線を迷わせていた。畳み掛けるように、さらにお兄様との距離を詰める。
「わたしだってもう大人です。自分の身は自分で守れます」
 胸の前で手のひらをぎゅっと握る。
「それに……そこに行けば、アインザッツ様に会えるかもしれません」
 お兄様はお昼に見せたのと同じ複雑そうな顔をして、しばらく黙り込んでいた。
「君を、アインザッツに渡すなんて……」
 そして小声で呟いてから、覚悟を決めたようにわたしの肩をつかんだ。
「……いいよ、わかった。でも、何かあったらすぐにぼくを呼ぶこと。いい?」
「わかりました」
 素直にこくりと頷くと、お兄様が安心したように微笑んだ。
「数日間、洋館の傍に張り込むつもりだけど、多分アインザッツがやってくるとしたら満月の晩……明日の夜だろうね」
「どうして満月の晩なんですか?」
 彼は微笑みを更に大きくして、おちゃらけた笑みに変えて。
「怪盗が動くのは満月の晩だと相場が決まっているからねっ」
 

 洋館周辺は、警察以外の人間は立ち入れないことになっていた。
 だからか、周囲には人の気配は無い。
 警察が待ち構えているなら、アインザッツ様も来ないのでは? とお兄様に確認すると、あいつなら警察がいるからこそ挑発しにやってきそうだから、と答えられた。
 先日の話を聞いた限りは、アインザッツ様が来る確証がありそうだったけど、まさかそんな理由とは……。
 だ、大丈夫なのでしょうか。
 不安を抱きつつも、わたしはお兄様とお兄様の仕事仲間と共に洋館を訪れた。
 先に洋館を巡回していた仕事仲間から、洋館の中の様子を聞いたお兄様は、
「わかった。じゃあ、君達はここを見張っていて。ぼくは先に裏を見てくる」
 と他の仕事仲間に声をかけて、次にわたしの方へ向き直る。
「あんまり、ハルカにこういう物は持たせたくなかったな」
 お兄様は悲しそうに目を伏せて、懐から鞘に収まった小ぶりのナイフを取り出した。
「あいつは宝石専門の怪盗で、今まで傷害事件を起こしたわけではないけど。万が一のこともあるかもしれない」
 そう言って、持っていたものをわたしの手に乗せる。
 料理用のキッチンナイフなら今までに手にしたことがあったけど、これは料理をするためのものではなくて、何かを傷つける為のナイフだ。
 その気になれば、人を傷つけることもできる。
 手の上の重みに手汗をかいたけど、わたしはそれをドレスの下につけているガーターベルトに挟んで隠し持つことにした。
「では、洋館の中を見て回ってきます」
「気をつけてね。何かあったらすぐにぼくを呼ぶこと! いいね?」
「はいっ」
 そうしてわたしは、深く息を吸って洋館の扉を開いた――

 洋館はお兄様の言う通り、古びているだけで至って普通の建物だった。

 広い廊下には真紅の絨毯が敷き詰められていて、壁には装飾品が飾りっぱなしになっていた。
 かなり長い間誰にも掃除されていないらしく、天井にある小さなシャンデリアも埃を被ってガラスがくすんでしまっている。
「せっかく飾ってあるのに、見てくれる人がいないなんて、なんだかかわいそう……」
 これだけ立派な洋館なのに、どうして急に人がいなくなったりしたんだろう。
 持ち主が亡くなっただけなら、普通は持ち主の親族が洋館の整理をするはずなのに。
 独りごちながら、一番傍にある部屋のドアノブを回し、中を覗いてみる。
 何の変哲もない普通の部屋で、人がいる様子はない。
 ……なんて、当たり前ですよね。お兄様が一般人は近寄れないようにしてるって言ってたし。
 扉を閉めて、隣の部屋も覗いてみる。やっぱり部屋の中には生き物の気配すらしない。
(アインザッツ様は、まだ来ていないのかな)
 そもそも来ない可能性だってあるし、もしかしたら今日よりも前に洋館を訪れて目当ての物を盗んでいるかもしれない。
 今自分がしている事は無駄なのかなとも思ったけど、そんな思考を消すようにふるふると首を振った。
(ううん、今はお兄様の言うことを信じよう)
『怪盗が動くのは満月の晩だと相場が決まっているからねっ』
 お兄様の声が脳内に蘇る。
 警察として経験が豊かなお兄様が言うなら、きっとそうなるに違いない。
 優しくて朗らかで、決める時はびしっと決める。
 本当にお兄様は、誇らしい人だと思う。

 月明かりの差し込む廊下を進んでいると、急に強い風が吹いた。
 窓がガタガタと揺れる音に驚きながら外の様子をうかがう。
 昼間よりも風が強まっているみたいで、速いペースで満月が黒い雲に覆われていく。
 どこか不安になる空の色に心細くなり、指先が冷え始めた。
「一通り見回ったら、お兄様のところへ戻りましょう」
 冷たくなった指先を温めるように手を握り、足を前へ動かす。


 引き続き廊下を歩いていると、左側に二階へ続く階段が見えた。
 二階にもいくつか部屋があるみたいだけど、廊下はまだ続いているから、この先にも部屋は残っているようだ。
(どうしましょう)
 一階の部屋を虱潰しに探してから二階へ行くか、それとも先に二階を見てみるか。
 悩んだ末、わたしは――

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